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戸田忠太夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
戸田 忠太夫
戸田忠太夫
時代 江戸時代末期(幕末
生誕 文化元年(1804年
死没 安政2年10月2日1855年11月11日
改名 幼名:亀之介(かめのすけ)、:忠敞(ただあきら)、:蓬軒(ほうけん)、清洲
別名 通称:銀次郎(ぎんじろう)
墓所 茨城県水戸市 酒門共有墓地
官位 贈正四位
幕府 江戸幕府
水戸藩家老
氏族 戸田氏
父母 父:戸田三衛門忠之、母:安島七郎左門衛門信可の娘
兄弟 姉(里見四郎左衛門室)、忠太夫安島帯刀
岡野行従の娘
銀次郎
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戸田 忠太夫(とだ ちゅうだゆう)は、日本幕末江戸時代・幕末)における水戸藩家老で、尊王派の志士として知られる。

水戸戸田家第7代当主。家老職拝命の際、主君・徳川斉昭より忠太夫の仮名を与えられる。諱から戸田忠敞、号から戸田蓬軒と呼ばれることも多い。

系譜

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戸田氏三河譜代の名門の家系であり、忠太夫は戸田氏(仁連木戸田家)の支流[* 1]で水戸藩に仕えた戸田有信[* 2]の後裔にして水戸藩の世臣であった戸田三衛門忠之の嫡男として生まれる。母は安島七郎左門衛門信可の女。歴代の知行は代々1300家紋は六曜。

生涯

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文化10年(1813年)、家督を継いで200石小普請組となる。文政3年(1820年)には大番組頭、文政11年(1828年)には目付となる。その頃、水戸藩に継嗣争いが起こり、徳川将軍家より養子を擁立しようとする一派に対抗し、中下士層を率いて聡明と聞こえる水戸藩第7代藩主・徳川治紀の三男である敬三郎を擁立する。これによって敬三郎が跡目(家督の後継者)となり、徳川斉昭となる。

斉昭が水戸藩主になると、忠太夫は藤田東湖とともに斉昭を支えることとなる。戸田忠太夫と藤田東湖は世に「水戸の両田(みとのりょうでん)」と称され[* 3]、尊王の志と学識を具えた優れた指導者として知られるようになった。水戸の両田に武田耕雲斎を加えて「水戸の三田」とも称される[* 4]

天保元年(1830年)には藩内争議のため、無願出府して免職され、留守居同心頭列となるものの、斉昭の意向により同年3月(西暦換算:4月頃[* 5])に江戸通事として復帰した。

天保6年4月(1835年5月頃[* 6])には格式旗奉行上座用人見習、8月(西暦換算:10月頃[* 7])、格式用人列御側用人見習。天保7年8月(1836年9月頃[* 8])には御側用人まで昇任、9月(西暦換算:10月頃[* 9])にはさらに和歌年寄代となる。天保9年(1837年)、馬廻組頭上座となる。天保10年11月(1839年12月頃[* 10])、水戸藩若年寄となり、与力同心をつけられることとなる。12月(西暦換算:1840年1月頃[* 11])には郷村懸鷹方馬方支配兼務となる。

天保11年2月(1840年3月頃[* 12])には学校造営懸となって弘道館を造営に参与する。8月(西暦換算:9月頃[* 13])には大寄合上座用達となる。10月(西暦換算:11月頃[* 14])には学校造営懸総司と要職を歴任する。

水戸藩における天保の改革として、領内総検地、海防準備、学校創設、寺社改革において重きをなし、弘化元年(1844年)に斉昭が幕疑を受けて致仕すると、同年5月(西暦換算:6月か7月[* 15])、忠太夫は藤田東湖ともども免職され、蟄居謹慎を命ぜられる。

斉昭への譴責が緩むにつれて忠太夫・東湖も復帰がかない、弘化3年(1846年)に蟄居を免じられて、中寄合となって水戸表での遠慮が命じられた。弘化4年(1847年)に致仕となると、しばらく政界から退いた。同年9月21日、老中・阿部正弘が水戸藩付家老・中山信守を召し出し、水戸藩保守派頭目の結城寅寿の罪状を詰問すると同時に、忠太夫・東湖の遠慮の宥免と入獄させている領民を釈放をすべきであると諭したが、この時は宥免されなかった。

嘉永5年(1852年)に入り、慎みが解けると蓬軒の号を用いるようになった。嘉永6年(1853年)に斉昭が幕府により海防参与を引き受けると、忠太夫・東湖両名も幕府海岸防禦御用掛、江戸詰となり、執政に準ずる身分となった。海防掛として老中以下幕臣の岩瀬忠震らと異人来襲の危機につき協議に参画するなど活躍し、同11月(西暦換算:12月[* 16])には忠太夫の名を賜った。

安政元年正月(1854年2月頃[* 17])、大寄合頭上座用達となり、再び安政の改革を執行するなど藩政の枢機に携わる。弘道館の造営や、領内検地、黒船来航などによる海防警備など、政務の大小問わず広く活躍する。しかし、安政2年10月2日1855年11月11日)に起きた安政江戸地震[* 18]で被災し[1]小石川の水戸藩邸にて死亡する。当日、藩邸内の家老や若年寄が住む切手長屋に在宅中、地震発生時に避難しようと自宅を飛び出した際、倒壊した木の下敷きになって圧死したとされている[2]。なお、奇しくも「水戸の両田」(※前述)は同じ地震で被災し、同じく圧死によって落命している。

その遺志は実弟で後に水戸藩家老となる安島帯刀、嫡男で水戸藩家老となる戸田銀次郎に引き継がれる。1891年明治24年)4月、贈正四位

家系

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源義家の七男・源義隆(陸奥七郎義隆)を祖とする。戸田氏は義隆の孫・森頼定森家初代当主)の十男・戸田信義(戸田氏の初代当主)より発祥する。

系図

戸田康光(弾正少弼) ─ 宜光(丹波守) ─ 重政(甚三郎) ─ 有利(十蔵) ─ 有信三衛門) ─ 有重(三衛門) ─ 有次(善十郎) ─ 忠長(陸之衛門) ─ 忠真(銀次郎) ─ 忠之(三衛門) ─ 忠敞忠太夫) ─ 忠則(銀次郎

人物

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文化人でもあった忠太夫は、優れた揮毫を遺しており、の名手としても知られた。

逸話

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小楼の逸話 ─俊斎の伝える処─

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明治維新後に子爵となる幕末薩摩藩士・海江田信義が、俊斎(有村俊斎)と名乗っていた頃(海江田家に養子入りして改名する以前、茶人として実家・有村家の者としてそのように号し呼ばれていた頃)、尊王思想を通じて知己となった藤田東湖の紹介で、水戸藩江戸屋敷(水戸藩の江戸藩邸)にいた戸田忠太夫を紹介され、以来、俊斎こと信義はしばしば忠太夫を訪ねていた。信義の遺した口述を西河稱(西河称)が編述して1891年明治24年)9月14日に刊行した『維新前後 実歴史伝』には、忠太夫の小楼に招かれた時のこととして俊斎の語った次のような話が記載されている。

原文》(…略…)おきな一日いちにち俊齋しゆんさい小樓せうろうに延けり。わづか一室いつしつ六疊ろくでふにすぎず。翁いはく、このろう頃日けいじつ落成らくせいせり、しかして前面に鬱蒼うつさうたる者は後樂園こうらくえん松林まつばやしにして、ひとたびこの樓に登ればあたか山中さんちゆうるのおもむきありて、塵機みずからやすむをおぼふ。而してしやう少壯せうさうよりしやうを好む。しかるにさきに藤田と共に禁錮きんこ九年くねんに及びしをもつまた笙を吹かさることひさし。こここの樓を經營けいえいするにあたりて幽情いうじやうてんてん動きあへ一吹いつすいを試みんことを思ひ、これを藤田に告ぐ。藤田曰く、笙は雅樂ががくにして鄭衛ていゑいこゑあらず、これろうするもとよりし、しかれども、必竟ひつきやう玩弄ぐわんろう遊戯いうぎたるをまぬかれず、今やペルリ來航らいかうの後、天下てんか紛擾ふんぜうきわ世人せじんあるい吾人ごじんもつ逸樂いつらくふけると評するなきやとおそる、時機ほ早し、ふ、すこしく猶豫いうよして可なりと。ああ、藤田のところじつあり、はなは慚愧ざんきへざりし、けだし藤田のげんり、また笙をらずといへども、心中しんちゆう忽然こつぜんとしてこの一念をはつせしもの、れ余が德義のいまだ藤田に及ばざる所以ゆゑんなりと。
─── 原文は、海江田信義『維新前後 実歴史伝』巻之一に記載された一話「戸田翁一日俊齋を小樓に延す」および、続く一話「戸田翁笙を吹かんと思ひ藤田の忠告に依て之を止む」(46~47面目[* 19][3]。全ての振り仮名はウィキペディア編者による補足。一部の濁点(例:「一たひ」→「一たび」、「未た」→「未だ」)と、全ての句読点の位置は、ウィキペディア編者による改変がある。

《解釈例》 戸田翁(戸田忠太夫)が、自ら営むわずか1室6畳の小楼(小さな楼閣)に藤田翁(藤田東湖)と私・俊斎(信義)を招いてくれ、一昼夜を談義して過ごした。戸田翁は、私達のいる楼は近日に落成したばかりなのだと紹介し、前面に見える鬱蒼とした木々は後楽園(小石川後楽園)の松林で、ひとたびこの楼に登ればあたかも山中にいるかのような趣きがあって気分がよくなると言った。戸田翁は続けて言った。私は若い頃からを吹くのが好きだが、以前、藤田ともども9年も禁錮を受けていたが故に笙どころではなく、久しく吹いていないと。そうして、楼を設けて営むにあたって深淵なる想いを旨に一吹きしてみようと思うと言って藤田翁に告げる戸田翁だったが、藤田翁はこれを諭して言った。笙は世を乱す鄙(いや)しい音楽ではなく雅楽のものだから、元来、吹くのは好ましい、とは言え、結局のところ遊びは遊び、黒船来航以来天下紛擾する今節に笙を吹いているのでは、世間の人々やあるいは近しい人の中にも、逸楽(快楽をむさぼり、気ままに遊び暮らすこと)に耽っているものと悪く捉える人のあるやもしれず、心配でならない、時機がまだ早いだろう、もう少し待ってはどうか、是非ともそうしてもらいたい。これを聞いた戸田翁は、藤田翁に全き理のあるを認めて助言を受け入れつつ、甚だ慙愧に絶えない様子で溜め息を漏らし、心中そのような気を動かしてしまうことが私の徳義の未だ藤田に及ばない所以だと言った。

─── 原文に基づき、文意を捉えたうえで百科事典に適した形への大幅な改変を行った[* 20][* 21]

孝明天皇の嘆き

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天保年間(1831-45年間)以来の水戸藩政での実績には忠太夫の力が大きく働いたとされる。聡明遠識あり、斉昭の輔翼として天下の重きに任じたが、志半ばで倒れた。忠太夫の死に際して世を挙げてこれを悲観し、その訃報は朝廷にも聞こえた。孝明天皇はその死を知ると、深く震悼して良臣を失ったと嘆いたといわれる。

明治天皇の恩賜

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1890年(明治23年)10月、時の天皇・皇后(明治天皇昭憲皇后)は、近衛諸兵演習を親閲するために水戸へ行幸啓した折、茨城県師範学校行在所としたが、同所にて義公(徳川光圀)・烈公(徳川斉昭)らかつての藩主やその家臣などの遺墨・遺品を見学した後、御沙汰書(ごさたしょ)[* 22]を下賜するとともに、尊王を唱えて国事に尽くした志士として戸田忠太夫・藤田幽谷藤田東湖会沢正志斎安島帯刀らを讃え、それぞれの遺族に祭粢料各200円を下賜した。

御沙汰書
原文》 夙二尊王ノ大義ヲ唱ヘ 力ヲ國事ニ盡シ候段 御追想被為在 今般行幸ニ際シ 思召ヲ以テ 祭粢料トシテ弐百圓下賜候事
書き下しつと尊王そんのう大義たいぎとなえ、ちから國事こくじつくそうろうだん御追想おんついそうあらせられ、今般こんぱん行幸ぎょうこうさいし、おぼしをもって、祭粢料さいしりょうとして弐百圓にひゃくえん下賜かしそうろうこと
口語訳例》(みかどは、係る志士らが)早くから尊王の大義を唱え、国事に尽力したことを思い起こされ、このたびの行幸に際し、そのご意向をもって、祭粢料として二百円をくだたまわります。

遺稿

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京都大学附属図書館には、維新資料として、忠太夫が藤田東湖会沢安、弟・安島帯刀らとともに詩歌を詠んで記したものが『東湖・忠敞・信立・会沢安遺墨』として現存している。

脚注

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注釈

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  1. ^ 本家は松本藩主たる戸田宗家(戸田松平家)。
  2. ^ 松平康長(戸田宗家第16代当主で、松本藩初代藩主)の叔父にあたる戸田重政甚三郎)の孫。水戸藩に仕官し、水戸戸田家の初代当主となる。
  3. ^ 「両田」の読みは未確認ながら、他は考えられない。
  4. ^ 三田」の読みは未確認。「両田」と呼応する「さんでん」がしっくり来るものの、「みた」や「さんだ」の可能性を否定し切れない。
  5. ^ 和暦の天保元年3月1日と3月30日(同月最終日)は、西暦グレゴリオ暦)では1830年3月24日と4月22日。
  6. ^ 和暦の天保6年4月1日と4月29日(同月最終日)は、西暦(グレゴリオ暦)では1835年4月28日と5月26日。
  7. ^ 和暦の天保6年8月1日と8月30日(同月最終日)は、西暦(グレゴリオ暦)では1835年9月22日と10月21日。
  8. ^ 和暦の天保7年8月1日と8月29日(同月最終日)は、西暦(グレゴリオ暦)では1836年9月11日と10月9日。
  9. ^ 和暦の天保7年9月1日と9月30日(同月最終日)は、西暦(グレゴリオ暦)では1836年10月10日と11月8日。
  10. ^ 和暦の天保10年11月1日と11月30日(同月最終日)は、西暦(グレゴリオ暦)では1839年12月6日と1840年1月4日。
  11. ^ 和暦の天保10年12月1日と12月31日(同月最終日)は、西暦(グレゴリオ暦)では1840年1月5日と2月4日。
  12. ^ 和暦の天保11年2月1日と2月30日(同月最終日)は、西暦(グレゴリオ暦)では1840年3月4日と4月2日。
  13. ^ 和暦の天保11年8月1日と8月30日(同月最終日)は、西暦(グレゴリオ暦)では1840年8月27日と9月25日。
  14. ^ 和暦の天保11年10月1日と10月30日(同月最終日)は、西暦(グレゴリオ暦)では1840年10月25日と11月23日。
  15. ^ 和暦の弘化元年5月1日と5月30日(同月最終日)は、西暦(グレゴリオ暦)では1844年6月16日と7月14日。
  16. ^ 和暦の嘉永6年11月1日と11月30日(同月最終日)は、西暦(グレゴリオ暦)では1853年12月1日と12月29日。
  17. ^ 和暦の安政元年1月1日と1月29日(同月最終日)は、西暦(グレゴリオ暦)では1854年1月29日と2月26日。
  18. ^ 安政の大地震」と総称される地震群に含まれる一つ。
  19. ^ 原書は見開き2頁分を1面と数えており、頁数に直せば倍数となる。
  20. ^ 忠太夫による東湖の呼称は「藤田」、俊斎による昔語りの中の忠太夫は「戸田翁」、同じく東湖は「藤田翁」とした。
  21. ^ 原文は記述内容に不備・不明瞭な部分があり、本意を捉え損ねる怖れもあるが、3人が揃った会合での話と解釈したうえで文を整えた。一見、戸田翁(戸田忠太夫)が藤田翁(藤田東湖)を招いた時の話を、後になって俊斎(海江田信義)を招いた戸田翁が話したという解釈も成り立つように思えるが、各所の文脈との整合性に乏しい。
  22. ^ 「御沙汰書」の読みとして「ごさたしょ」と「おさたがき」があるが、前者は天皇発信、後者は幕府発信のものをいう。

出典

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  1. ^ “19世紀後半、黒船、地震、台風、疫病などの災禍をくぐり抜け、明治維新に向かう(福和伸夫)”. Yahoo!ニュース. (2020年8月24日). https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/4d57ba83d5e41aac42e5017f84dc3147e53dc0ff 2020年12月3日閲覧。 
  2. ^ 『幕末証言「史談会速記録」を読む』、菊池明、2017年、洋泉社、P20
  3. ^ 海江田信義 口述、西河稱 編述. “維新前後実歴史伝”. 電子資料館 近代文献情報データベース(公式ウェブサイト). 国文学研究資料館. 2018年7月7日閲覧。※同書は、本文において話の切り替わる位置に何の目印も設けていないが、上段に小見出しの欄を設けて示している。

関連項目

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