戸田忠庸
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戸田 忠庸(とだ ただつね、1879年(明治12年)2月26日[1] - 1953年(昭和28年)9月23日[1][2])は、明治末から昭和前期の陸軍軍人・政治家。華族。最終階級は陸軍騎兵大佐。貴族院子爵議員。
経歴
[編集]東京府で元宇都宮藩主・戸田忠友の二男として生まれる[1][3]。父の死去に伴い1924年(大正13年)3月15日、子爵を襲爵した[1][4]。
陸軍士官学校(15期)に入り[5]、1903年(明治36年)11月30日に卒業し[6]、1904年(明治37年)2月12日、騎兵少尉に任官[2][7]。以後、近衛騎兵連隊付、騎兵第16連隊中隊長、同連隊副官、騎兵第2旅団副官、騎兵第3連隊長などを歴任[2]。1929年(昭和4年)8月1日、騎兵大佐に昇進し[8]、同年8月31日、予備役に編入された[2][9]。
1937年(昭和12年)10月9日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し[10][11]、研究会に所属して活動し1942年(昭和17)11月6日に辞職した[2][12][13]。
栄典
[編集]親族
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f 『平成新修旧華族家系大成 下巻』187-189頁。
- ^ a b c d e 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』48頁。
- ^ 『人事興信録 第9版』ト5頁。
- ^ 『官報』第3467号、大正13年3月17日。
- ^ 『陸軍士官学校』233頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』194頁。
- ^ 『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 昭和3年9月1日調』715頁。
- ^ 『官報』第778号、昭和4年8月2日。
- ^ 『官報』第804号、昭和4年9月2日。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、45頁。
- ^ 『官報』第3234号、昭和12年10月12日。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、51頁。
- ^ 『官報』第4752号、昭和17年11月12日。
- ^ 『官報』第7701号「叙任及辞令」1909年3月2日。
- ^ 大橋芳雄『人事興信録』 10版(昭和9年) 上卷。
参考文献
[編集]- 陸軍省編『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 昭和3年9月1日調』偕行社、1928年。
- 人事興信所編『人事興信録 第9版』人事興信所、1931年。
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 山崎正男編『陸軍士官学校』秋元書房、1969年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 下巻』霞会館、1996年。
日本の爵位 | ||
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先代 戸田忠友 |
子爵 (宇都宮)戸田家第2代 1924年 - 1947年 |
次代 華族制度廃止 |