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戸田忠盈

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
戸田忠盈
戸田忠盈の墓(合葬墓碑)
時代 江戸時代中期
生誕 享保15年6月2日1730年7月16日
死没 天明元年7月28日1781年9月16日
改名 慶次郎(幼名)、忠盈
別名 忠辰
戒名 勧善院殿前従五位下兼伊州大守徳巌全大居士
墓所 栃木県宇都宮市英巌寺
官位 従五位下日向守能登守伊賀守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家重
下野宇都宮藩主、肥前島原藩
氏族 戸田氏
父母 戸田忠余
兄弟 秋元喬求忠盈忠寛木下俊胤
智鏡院源空浄本、青山忠高正室
直、倉
直太郎、忠興、栄之助、力、利尾、忠寛
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戸田 忠盈(とだ ただみつ)は、下野国宇都宮藩3代藩主、肥前国島原藩初代藩主。宇都宮藩戸田家6代。

略歴

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享保15年(1730年)6月2日、宇都宮藩の第2代藩主・戸田忠余の次男として江戸屋敷で生まれる。父・忠余は養父の戸田忠真の六男・戸田忠久を養子に迎えていたが、その忠久が享保13年(1728年)8月8日に早世し、実兄(秋元喬求)も秋元家の養子となったため、戸田家の世子となる。延享元年(1744年)12月16日に従五位下・日向守に叙任される。延享3年(1746年)の父の死去により家督を継いだ。

忠盈は宇都宮の人心が荒廃していることを憂い、延享5年(1748年)に領内に「御教条之趣」を出した。これは領民が守るべき心を指示したものであり[1]、忠盈は人心の荒廃に対して厳罰で対処せず、心や孝行で領民の心を変えることを務めたのである[2]

寛延2年(1749年)7月23日、肥前島原藩に移封となる[1]。しかし病弱なため、宝暦4年(1754年)7月25日、25歳の時に病気を理由に家督を養子(弟)の忠寛に譲って隠居[1]、以後は江戸で余生を送った。天明元年(1781年)7月28日に死去。享年52。

系譜

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父母

側室

子女

養女

脚注

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  1. ^ a b c 坂本 2011, p. 64.
  2. ^ 坂本 2011, p. 65.

参考文献

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  • 坂本俊夫『宇都宮藩・高徳藩』現代書館〈シリーズ藩物語〉、2011年9月。