戸田止戈夫
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とだ しかお 戸田 止戈夫 | |
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生誕 |
1899年2月5日 日本・岡山県後月郡西江原村 (現:井原市) |
死没 | 不明 |
国籍 | 日本 |
出身校 |
旧制岡山県立高梁中学校 (現・岡山県立高梁高等学校) |
職業 | 実業家 |
肩書き | 戸田工業代表取締役(創業者) |
配偶者 | 茂(妻) |
子供 |
英夫(長男) 敏子(長女) 浩次(次男) 明子(次女) 雅子(三女) |
親 | 戸田生一(父) |
親戚 | 戸田接三 |
戸田 止戈夫(とだ しかお、1899年(明治32年)2月5日[1] - 不明)は日本の実業家である。戸田工業の創業者であり、元社長である。岡山県井原市出身。
経歴
[編集]生い立ち
[編集]1899年(明治32年)岡山県後月郡西江原村(現:井原市)[2]の戸田生一の四男として出生。学業優秀者として旧制小学校を飛び級で卒業。1911年(明治44年)旧制岡山県立高梁中学校(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学し、1916年(大正5年)16歳で同校を卒業[3]。戸田接三の死去により、中備機業合資会社を引き継ぐ[2]。同年、東洋除虫材を設立した[3]。
戸田工業設立の経緯
[編集]東洋除虫材はその後、蚊取り線香の製造を始め、1920年(大正9年)に西江原にあった工場は、営業所とあわせて広島県安佐郡横川町(現:広島市西区)へ移転した[4]。1926年(大正15年)広島県安佐郡深川にあった弁柄製造工場を買収し、1933年(昭和7年)に広島市横川町に弁柄の製造販売を事業目的とする戸田工業株式会社を資本金50万円で設立。戸田が初代代表取締役社長に就任した[4]。
その後、広島商工会議所へ所属し、広島市議会議員となった。1936年(昭和11年)広島市舟入川口町に本社および工場を移転し、1940年(昭和15年)クツワ弁柄製造株式会社を設立し、戸田工業の弁柄製造部門を移管した。1950年(昭和25年)に戸田の長男である戸田英夫が2代目代表取締役社長に就任し、50歳で社長職を退任した[4]。
趣味は乗馬と旅行であった。
脚注
[編集]- ^ 『大衆人事録 第14版 近畿・中国・四国・九州篇』帝国秘密探偵社、1943年、広島26頁。
- ^ a b 官報 1917年10月20日, 大蔵省印刷局 [編], 日本マイクロ写真, 大正6年
- ^ a b 人事興信録 第13版下, 人事興信所 編, 人事興信所, 昭和16年
- ^ a b c “戸田工業株式会社 創業200周年特設サイト”. www.todakogyo.co.jp. 2024年12月28日閲覧。