戸野みちゑ
戸野 みちゑ(戸野 美知恵[1]、との みちえ、1870年3月8日(明治3年2月7日)[2] - 1944年(昭和19年)12月13日[3])は、明治から昭和期の教育者。旧姓・西里[4]。
経歴
[編集]京都府[2]で西里了観の長女として生まれる[4]。京都府高等女学校を経て、1890年に東京女子高等師範学校本科を第一回生として卒業[2][5][6]。1893年、戸野周二郎と結婚した[7]。京都府師範学校、彦根町立高等女学校、奈良県立奈良高等女学校、愛知県名古屋高等女学校、長野町立長野高等女学校などの教諭を歴任[5][8]。
1902年、母校の東京女子高等師範学校の教諭に就任[5]。同年9月、夫が清国湖北省武昌の湖北師範学堂・総教習として招かれ、戸野も同地での幼稚園事業の教習として招聘され、1903年秋に戸野、丹雪江、武井ハツら日本人3名が渡清して準備を行い、1904年2月、中国初の公的幼児教育施設「湖北幼稚園」が正式に開園し、戸野が園長に就任した[1][9]。日本の「幼稚園保育及設備規程」(1899年制定)を元に作成した「湖北幼稚園開弁章程」は、中国における公的な幼児・女子教育制度の先鞭となった[10]。園長を2年間務めて1905年に帰国した[5]。
1909年に中村高等女学校(現在の中村中学校・高等学校)初代校長に就任[11]。
1915年、女子美術学校(現在の女子美術大学)教頭に就任し[7]、翌年から佐藤高等女学校(現在の女子美術大学付属高等学校・中学校)校長を兼ねた[12]。1922年、十文字こと、斯波安とともに文華高等女学校(現在の十文字中学校・高等学校)を創設し[13]、1935年まで校長を務めた[7]。
1923年の関東大震災直後には、東京女子高等師範学校校友会「櫻蔭会」をまとめ、翌1924年の櫻蔭女学校(現在の桜蔭中学校・高等学校)設立の中心的役割を担った[14]。
女子美術専門学校理事・校務監督・講師[7]。その他、生活改善中央会理事、少年保護婦人協会評議員なども歴任[2]。
1944年12月、病により死去し、熱海市において戦時下のため近親のみで葬儀が執り行われた[3]。
著作
[編集]- 『校外読本 新日本』第一編、国定教科書共同販売所、1908年。
- 吉岡郷甫閲、教育資料研究会編『校外読本 新日本』第二編、学海指針社、1905年。
- 『校外読本 新日本』第三編、国定教科書共同販売所、1908年。
- 『校外読本 新日本』第四編、国定教科書共同販売所、1908年。
- 近藤正一共著『実用女子作文全書』博文館、1911年。
親族
[編集]脚注
[編集]- ^ a b 『中国の近代教育と明治日本』197-198頁。
- ^ a b c d 『日本女性人名辞典』[普及版]746-747頁。
- ^ a b 『朝日新聞』(東京本社発行)1944年12月16日朝刊、2頁。
- ^ a b c 『人事興信録』第9版、ト8-9頁。
- ^ a b c d 「戸野みちゑと中国初期の幼稚園教育」36頁。
- ^ 『女子美術教育と日本の近代』272-274頁。
- ^ a b c d 『人事興信録』第11版(下)、ト11頁。
- ^ 『中国の近代教育と明治日本』198頁。
- ^ 「戸野みちゑと中国初期の幼稚園教育」32-33頁。
- ^ 「戸野みちゑと中国初期の幼稚園教育」33-35頁。
- ^ 中村中学校・高等学校. “歴史・沿革” (日本語). 2016年8月2日閲覧。
- ^ 女子美術大学歴史資料室. “女子美の歩み” (日本語). 2016年8月2日閲覧。
- ^ 十文字学園女子大学. “沿革” (日本語). 2016年8月2日閲覧。
- ^ 櫻蔭會史(1930年)299-300頁