房思安
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房思安(ぼう しあん、生没年不詳)は、中国の北魏の官僚・軍人。本貫は清河郡繹幕県[1]。
経歴
[編集]皇興元年(467年)、房法寿や房崇吉らとともに北魏に降り、楽陵郡太守となった[2]。西安子の爵位を受け、建威将軍・北平郡太守に転じた。大司馬司馬・斉州武昌王府司馬を歴任した。太和21年(497年)、孝文帝が南征の軍を起こすと、召還されて歩兵校尉・直閤将軍・中統軍をつとめた。兵士たちをよく宥めて、孝文帝に称賛された。漢陽が平定されると、武昌王司馬をつとめ、東魏郡太守を兼ね、寧朔将軍の号を加えられ、清河子に爵位を改められた[3]。太和22年(498年)、従兄の房伯玉が宛で降伏すると、思安はしきりに伯玉の助命を願い出たことから、孝文帝は特別にこれを許した[4]。のちに思安は在官のまま死去した[3]。
家族
[編集]脚注
[編集]伝記資料
[編集]- 『魏書』巻43 列伝第31
参考文献
[編集]- 『魏書』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00313-3。