手代木勝任
時代 | 江戸時代末期(幕末) - 明治時代 |
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生誕 | 文政9年3月9日(1826年4月15日) |
死没 | 明治37年(1904年)6月3日 |
改名 | 幼名:源太郎 |
別名 | 通称:斎宮、直右衛門(すぐえもん) |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 会津藩 |
父母 | 父:佐々木源八、養父:手代木勝富 |
兄弟 | 勝任、佐々木只三郎、佐々木源四郎、他 |
妻 | 小川権次の次女・喜与子 |
子 |
中枝(米沢藩士・甘粕鷲郎妻) 養嗣子:手代木良策 |
手代木 勝任(てしろぎ かつとう)は、幕末の会津藩士。明治時代の地方官吏。
生涯
[編集]幕末
[編集]会津藩士・佐々木源八の長男として生まれ、源八の実兄で、百石取りの手代木勝富の養子となった[1]。京都見廻組組頭である佐々木只三郎、隊員であった佐々木源四郎は実弟[1]。妻は150石取の藩士、小川権次の次女、喜与子[1]。江戸御聞番として出仕している[1]。
会津藩主松平容保が京都守護職を務めていた際、手代木は公用方として京に赴任し、諸藩との折衝や、京都町奉行や京都所司代との連絡用務、新選組の指揮などを受け持った[1]。元治元年には京都定詰公用人・御聞番御内用兼務となり、容保の名代として宮中に参内を行うこともあった[1]。この際徳川慶喜から賞賜を受け、金、服地を賜っている。また才幹を認められ、幕府への出仕も求められた[1]。
鳥羽・伏見の戦いの後、和歌山から海路会津に戻り、奥羽越列藩同盟のために諸藩との交渉を行った[1]。会津戦争において会津若松城に篭城。若年寄に昇進した。開城の際、手代木は藩命により秋月悌次郎とともに城を脱出。米沢藩に赴き、降伏の仲介を依頼し、官軍首脳の板垣退助、伊地知正治との降伏交渉を行なった。
囚人
[編集]戦後は会津藩士のうちでまっさきに東京に召喚された5名のうちの一人となっており、10月17日に東京に護送された。投獄された後に小倉藩邸にお預けとなる[1]。明治2年(1869年)6月に高須藩への永のお預けとなり、7月には高須にうつっている[1]。高須藩主松平義勇は容保の実弟であり、格別に厚遇されたという[2]。明治4年9月には高須藩が尾張藩と合併したために尾張藩に預け替えとなり[3]、12月には青森県の親類への預けとなる[3]。明治5年(1872年)2月6日に赦免された[4]。
明治
[編集]4月16日、青森県庁より呼び出され、中央政府への任官を求められる。手代木は旧主容保に伺いを立ててからお受けすると返答し、江戸で容保と面会した。容保はこれを快諾し、前途を祝す歌[5]を贈っている[4]。5月には左院少議生となり[4]、その後は香川県、高知県の各権参事を歴任し、明治11年(1878年)には岡山区長[6]を勤めた[1]。この間、福島県知事の内命を受けるが断っている[1]。また困窮した会津松平家のため、20年間俸給の半ばを割いて送金していたという[7]。明治37年(1904年)、岡山市で没した。墓所は岡山市東山霊園。
家族
[編集]子女のうち、長女の元枝は太田始四郎の後妻となり太田収(山一証券社長)を産み[8]、次女の中枝は米沢藩士・甘粕鷲郎に嫁ぎ二女を儲けた。甘粕夫妻は早くに亡くなり、娘達は叔父の甘粕三郎に引き取られたが、長女の初(初子)は後に新島八重の養女となっている。養嗣子となった手代木良策は大正12年(1923年)6月に『手代木直右衛門伝』を刊行している[9]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l 中西達治 2010, p. 227.
- ^ 中西達治 2010, p. 225.
- ^ a b 中西達治 2010, p. 227、225.
- ^ a b c 中西達治 2010, p. 214.
- ^ 「いはふぞや 今は長閑き青雲に 立ちかはり行く 旅のかどでを」 (中西達治 2010, p. 221)。容保は手代木が高須に配流されたと聞いた時にも手代木を気遣う歌を詠んでいる(中西達治 2010, p. 221)
- ^ 『改正官員録(下)』
- ^ 中西達治 2010, p. 221.
- ^ 庭瀬八幡神社岡山市電子町内
- ^ 中西達治 2010, p. 226.