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伊地知正治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
伊地知 正治
伊地知正治
時代 江戸時代末期(幕末) - 明治時代中期
生誕 文政11年6月27日1828年8月7日[1]
死没 明治19年(1886年5月23日
改名 幼名:竜駒、:季靖
別名 通称:竜右衛門→正治、:一柳
墓所 青山霊園
幕府 江戸幕府
薩摩藩
氏族 伊地知氏庶流伊地知家
父母 父:伊地知季平、母:黒田氏
舍利子(秩父右之丞長女)
正一郎正輔
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伊地知 正治(いじち まさはる / しょうじ)は、日本武士薩摩藩士)、官僚政治家華族は季靖。通称龍右衛門、後に正治。正三位勲一等伯爵。家紋は宝結び。

戊辰戦争白河口の戦いでは、わずか700の兵で、4倍弱にあたる2500名の幕府軍を撃破したことなどにより、「類いまれな軍略家」などという異名がある。[2]また、片眼と片脚が不自由がなのにも関わらず新政府軍参謀として活躍したことにより、「薩摩の山本勘助 」などという異名もある。[3]

生涯

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薩摩藩士伊地知季平の次男として鹿児島城下千石馬場町に生まれる[4]幼名は竜駒。3歳の時に文字を読んで「千石の神童」と呼ばれるが、幼い頃に大病を患ったために片目と片足が不自由となる。

剣術を薬丸自顕流薬丸兼義に、合伝流兵学を初め伊敷村の石沢六郎、後に荒田村の法亢宇左衛門に学んで奥義を極めた。合伝流の弟子に西郷従道高崎五六淵辺群平三島通庸がいる。池上四郎有馬藤太も薫陶を受けている。のち藩校造士館の教授となる。

安政6年(1859年)には精忠組に参加。文久2年(1862年)、島津久光の上洛に従って京都に上った功績により軍奉行となる。 文久3年(1863年)の薩英戦争では大砲方の長として参加したが、窮地に陥った際に大砲の上に直立して戦略を立てるという無鉄砲な行動に出たため、敵味方から呆れられたとの話が残る[5]

伊地知は類稀な軍略家であり、禁門の変戊辰戦争で大きな功績を挙げた。白河口の戦いではわずか700の兵で白河城に拠る旧幕府軍2,500に圧勝し、また土佐藩板垣退助と共に母成峠の戦いで旧幕府軍を大破して会津若松城開城に大きく貢献した。伊地知の兵法の特徴は、徹底した少数精鋭主義(薩摩藩兵では城下士の部隊、長州藩兵では奇兵隊系の部隊を選抜して率いた)、合伝流の伝統である火力絶対主義、そして時に拙速ともいえる速戦主義にあった。

維新後

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戦後は薩摩藩の藩政改革に臨んだが、中央の太政官政府と海軍予算拠出を巡って対立し勝手に帰郷するなど騒動を起こしてもいる。廃藩置県後は薩閥の有力者として太政官政府に入った。

征韓論争では征韓側につく。板垣とともに派兵計画を立てるが、明治六年政変では下野しなかった。対立していた左院議長の後藤象二郎が下野したことで、同副議長の伊地知が代わって議長に就任したためである。のちに参議を兼任し、修史館総裁、一等侍講宮中顧問官などを歴任。西南戦争では早々に薩軍の敗北を予見したが、戦後は帰郷して郷里の復興に尽力。1884年(明治17年)7月17日、伯爵を叙爵。明治19年(1886年)に59歳で死去。激烈な性格で頭脳は優れていたというが奇人としての逸話も多い。

評価

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  • 西郷隆盛 「伊地知先生さえいれば、薩摩の軍略は大丈夫である」[1]
  • 勝海舟 「伊地知は、西郷について、参謀のような事をしていた。恐ろしい智者であったが、また気違いのような男であった」[6]
  • 大隈重信
    • 「なかなかの学者だった。しかし容貌は如何にも醜陋、大体不具と見える程の小男で、よく見るも気の毒な様な気がする人であったが、これでも矢張り御維新になるとソロソロ派手になって来た。妙なものだて」[7]
    • 「したたか者で、さすがの大西郷も彼には一目置いた位さ。我輩と一時同僚だったが、弁論もやる、すこぶる利かぬ気の男だった敗軍になって味方が逃げるという時にも、天幕の中に高いびきをして眠っている。鉄砲のた弾がヒューヒュー来る。慌てて揺り起こすと『ああ左様か』って調子に悠然と起き上がって、ノッシノッシと出掛ける。小男ながら満身皆胆であった。それで荒武者共を制し得たので。左も無くて腕力などとなったら、子供にも訳無くねじ伏せられたろうよ。がその胆力の盛んな事といったら、獅子一吼して百獣降服する。そんな様な訳で、豪傑連がみな彼を畏敬して居った」[8]
  • 西郷従道 「先生は少壮尊王憂國の志を懐いて上國に出で、戊辰王師の起るや、帷幄枢機に参加しまた戦線に出て攻城野城の功も鮮少ならずであつた、その用兵の術に於いては天才的将軍の名を博した人である。またあまり世の知らざる所なるが開拓興産の道に詳しく、経国済民の志に篤かったことは、驚嘆に値すべきである」[3]
  • 大山柏 「作戦上に示された手腕に至っては、その多くを羅列するよりも、白河殲滅戦を挙げれば、足りて余りがある。勿論人たる以上、手ぬかりも失策も存ずるけれども、一度維新戦史の大局上から見て、東山白河口方面の作戦が、最初よりその兵力において少ないにもかかわらず、最も順調有効に、かつ迅速果敢に指導せられ、常に全戦局発展の枢軸をなし、全作戦をリードした点は、没す可からざる功績である。越後口方面の如きは、万余の大兵を動かし、悪戦苦闘を重ね、果ては大総督府参謀、大西郷自ら直接同方面の作戦を指導して、ようやく成果を収めたのと対比して見たなら、一目瞭然たるものがある」[3]
  • 大久保利武 「先生は幼にして學問を好み博く和漢の書を讀みまた時務にも通し當時の兵學の大家に學ひその奥義を極め精忠の士の間には兵學者とし戦術家の第一人者たりしは能く人の知るところ藩政時代より重要なる問題には必ず参畵し戊辰の役に於ける作戦計畵は殆んど先生の方寸より出て戦術は總て先生の手に成り赫々たる軍功を樹てたるなり。山本伯會て余に語つて曰く戊辰の役先生の名は偉いものであつた」[9]
  • 岡本柳之助 「怖ろしく唇の引きつった男で、みなりなど頭から構わぬ。なにしろ薩摩の伊地知といえば、当時人も知る学者で戦上手な名士であった。舌端迸る胸中の学量には、すくなからず敬服した。伊地知さんは薩摩切っての豪物であった。薩摩軍制の改革者で胸底縦横な軍略のある人であった。当時伊地知さんぐらい本当の戦争の出来る人はすくなかったのは武人仲間の定評である」[10]
  • 本多辰次郎「省長將官等の顯官に就任せられなかつたのも亦以て先生が才文武を兼ね性謙恭で、社會の表面に立つを好まれなかつた事を知るにたるのである。斯くの如く先生は資性謙恭であつても、其の膽略機智に富んで、大事に果斷なるは鳥羽の戰に當つて、南洲翁師の任を帯びながら、専ら諸藩戰隊の動靜を巡視するに力め、「薩軍の進退は伊地知が居るから大丈夫である。」と一任して危惧する所が無かつたといふに徴して、翁の宏量と先生の材幹とを想望することが出来る」[9]

栄典

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親族

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  • 長男:伊地知正一郎 - 伯爵
  • 次男:伊地知正輔 - 伯爵

系譜

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伊地知氏の祖は、桓武天皇7代の子孫である秩父氏の祖・秩父将恒(平将恒)で、越前国伊知地(現・福井県勝山市伊知地)を領したことから伊地知氏を称した。将恒より13代の子孫伊地知季随島津氏5代貞久と同番の足利尊氏の内臣であったが、尊氏によって罪人とされたのを貞久の執り成しにより許され、その貞久が許しを得て薩摩国へ下向すると、その臣下となって共に下向、その際に下大隅を拝領したのが大隅国に土着する始めとなった[12][13]

1伊地知季平堤維長
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2伊地知季梁3伊地知正治堤哲長
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
4伊地知正一郎5伊地知正輔亀井茲明
 
 
 
 
 
 
6伊地知正興亀井茲常
 
 
 
 
 
 
操子
 
 
 
7伊地知正勝
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
8伊地知恭正伊地知昭正
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
9伊地知洋正伊地知剛正

関連作品

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伊地知正治が登場する作品

脚注

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  1. ^ 『伊地知正治小伝』(鹿児島県教育会、1936年)1頁
  2. ^ 幕末ガイド”. 2022年5月24日閲覧。
  3. ^ a b c 『伊地知正治小伝』鹿児島県教育会。 
  4. ^ 上田正昭ほか監修 著、三省堂編修所 編『コンサイス日本人名事典 第5版』三省堂、2009年、123頁。 
  5. ^ 千田稔『華族総覧』講談社現代新書、2009年7月、582頁。ISBN 978-4-06-288001-5 
  6. ^ 『海舟座談』p203
  7. ^ 『早稲田清話』P286
  8. ^ 『早稲田清話』P288
  9. ^ a b 『伊地知正治小伝』鹿児島県教育会。 
  10. ^ 『風雲回想録』p85
  11. ^ 『官報』第316号「叙任及辞令」1884年7月18日。
  12. ^ 本藩人物誌』 鹿児島県史料集(13)(鹿児島県史料刊行委員会)
  13. ^ 『「さつま」歴史人名集』稲葉行雄著、高城書房出版、ISBN 4-924752-28-2

関連項目

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公職
先代
(新設)
日本の旗 修史館総裁
1877年 - 1879年
次代
(欠員→)三条実美
先代
伊丹重賢(→欠員)
議長代理
日本の旗 左院議長
1873年
次代
(廃止)
先代
江藤新平
日本の旗 左院副議長
1872年 - 1874年
次代
(欠員→)佐々木高行
日本の爵位
先代
叙爵
伯爵
伊地知(正治)家初代
1884年 - 1886年
次代
伊地知正一郎