本多辰次郎
人物情報 | |
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生誕 |
七里辰次郎 明治元年4月15日(1868年5月7日) 尾張国海部郡津島 |
死没 |
1938年(昭和13年)7月8日 東京府東京市大森区久ヶ原町913番地 胃腸病 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 帝国大学大学院 |
配偶者 | 文之 |
両親 | 七里長兵衛、本多正開 |
子供 | 正一、美和、寿満、節、親子、久子 |
学問 | |
研究機関 | 宮内省 |
学位 | 文学博士 |
称号 | 正四位勲三等 |
本多 辰次郎(ほんだ たつじろう、明治元年4月15日(1868年5月7日) - 1938年(昭和13年)7月8日)は戦前日本の歴史学者。山形県立山形中学校長、宮内省臨時帝室編修局御用掛、法政大学、立教大学講師。
経歴
[編集]明治元年(1868年)4月15日愛知県海部郡津島町に七里長兵衛の次男として生まれた[1]。1886年(明治19年)上京して浅草区小島町に住み、大谷教校に通ったが、同年高等科が京都に移転したため、共立学校に入学した[1]。1889年(明治22年)第一高等中学校、1895年(明治28年)東京帝国大学国史科、1898年(明治31年)帝国大学大学院に進んだ[1]。
1898年(明治31年)本多正開の養子となり[1]、1902年(明治35年)家督を相続した[2]。1903年(明治36年)5月山形県立山形中学校教諭心得、12月校長となり、1908年(明治41年)2月22日辞職した[1]。
1908年(明治41年)2月24日宮内省図書寮に出仕、5月図書課長、1914年(大正3年)編修課長となり、1915年(大正4年)3月昭憲皇太后実録編修主任を任された[1]。1924年(大正13年)9月15日「徳川時代ニ於ケル山陵修築」で文学博士[3]。1926年(大正15年)6月3日臨時帝室編修局御用掛となって『明治天皇紀』編纂に携わり、1933年(昭和8年)完成し、7月29日免職となった[1]。8月24日正四位勲三等[1]。
1933年(昭和8年)9月法政大学、立教大学講師となり[1]、9月24日から10月28日まで華北塘沽、天津、北平、満州国大連、旅順、撫順、奉天、新京、吉林、朝鮮平壌、京城、金剛、慶州を旅行した[4]。
1936年(昭和11年)9月体調不良により大学を辞職し、1937年(昭和12年)10月18日長男正一に家督を譲り、自身は娘親子、久子と大森区久ヶ原町913番地に分家した[1]。1938年(昭和13年)5月胃腸を患い病床に伏し、7月8日午前9時20分死去した[1]。10日自宅で葬儀が行われた[1]。法名は真知院釈成覚[1]。
著書
[編集]- 1901年(明治34年) 『新編東洋史要』 NDLJP:775774
- 1906年(明治39年) 『近世高僧逸伝』 NDLJP:816371
- 1915年(大正4年) 『維新史』 NDLJP:932800
- 1916年(大正5年) 『勤王論之発達』 NDLJP:953293
- 1923年(大正12年) 『真宗開祖親鸞聖人』 NDLJP:969826
- 1928年(昭和3年) 『勤王思想の発達』
- 1933年(昭和8年) 『皇室と仏教』 NDLJP:1105882
- 1936年(昭和11年) 『北支満鮮旅行記』
- 1936年(昭和11年) 『真宗の研究』
- 1940年(昭和15年) 『かたみの花』 NDLJP:1104781
親族
[編集]- 実父:七里長兵衛
- 養父:本多正開
- 妻:文之 - 1887年(明治20年)11月生。和歌山県出身。弟に朝鮮貯蓄銀行頭取・植野勲[2]、東京パン社長・植野明。
- 長男:正一 - 1909年(明治42年)7月生[2]。
- 長女:美和 - 1901年(明治34年)4月生三重県農学士東千世久に嫁ぐ[2]。
- 次女:寿満 - 1905年(明治38年)3月生。東京府陸軍士官神吉武吉に嫁ぐ[2]。
- 三女:節 - 1908年(明治41年)4月生。第三高等女学校卒。愛知県陸軍士官水谷秀行に嫁ぐ[2]。
- 娘:親子 - 1917年(大正6年)3月生[2]。
- 娘:久子 - 1919年(大正8年)6月生[2]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 本多文之『かたみの花』本多文之、1940年。NDLJP:1104781
- 井関九郎『学位大系博士録 昭和十五・六年版』発展社出版部、1940年。NDLJP:1460729/291
- 内尾直昌『人事興信録 10版』 下、人事興信所、1934年。NDLJP:2127128/526
- 高橋勝浩「本多辰次郎『北支満鮮旅行記』」(PDF)『明治聖徳記念学会紀要』第46号、明治聖徳記念学会、2009年。