桓武天皇
桓武天皇 | |
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『桓武天皇像』 延暦寺 蔵 | |
即位礼 | 781年5月12日(天応元年4月15日) |
大嘗祭 | 781年12月4日(天応元年11月15日) |
元号 |
天応 延暦 |
時代 | 奈良時代 - 平安時代 |
先代 | 光仁天皇 |
次代 | 平城天皇 |
誕生 |
737年(天平9年)[2] 平城京 |
崩御 |
806年4月9日(延暦25年3月17日)[3] 平安京 |
大喪儀 | 806年4月28日(延暦25年4月7日) |
陵所 | 柏原陵 |
漢風諡号 | 桓武天皇 |
和風諡号 | 日本根子皇統弥照天皇 |
追号 | 桓武天皇 |
諱 | 山部 |
別称 |
柏原帝 日本根子皇統弥照尊 天國押撥御宇柏原天皇 |
父親 | 光仁天皇 |
母親 | 高野新笠 |
皇后 | 藤原乙牟漏 |
夫人 |
藤原旅子 藤原吉子 多治比真宗 藤原小屎 |
子女 |
平城天皇 嵯峨天皇 淳和天皇 伊予親王 葛原親王 万多親王 良岑安世ほか(后妃・皇子女節参照) |
皇居 | 平城宮・長岡宮・平安宮 |
桓武天皇(かんむてんのう、737年〈天平9年〉- 806年4月9日〈延暦25年3月17日〉)は、日本の第50代天皇(在位:781年4月30日〈天応元年4月3日〉 - 806年4月9日〈延暦25年3月17日〉)。諱は山部(やまべ)。
平城京から長岡京および平安京への遷都を行った。また、践祚と日を隔てて即位した初めての天皇であり、桓武平氏の始祖となる。
桓武天皇は男である。
略歴
[編集]白壁王(後の光仁天皇)の長男(第一皇子)として天平9年(737年)に産まれた。生母は百済系渡来人氏族の和氏の出身である高野新笠。当初は皇族としてではなく官僚としての出世が望まれて、大学頭や侍従に任じられた(光仁天皇即位以前は山部王と称された)。その状況が大きく変化するのは34歳の時に称徳天皇の崩御によって父の白壁王が急遽皇位を継承することになってからである。
父王の即位後は親王宣下と共に四品が授けられ、後に中務卿に任じられたものの、生母の出自が低かったため立太子は予想されていなかった。しかし、藤原氏などを巻き込んだ政争により、異母弟の皇太子の他戸親王の母である皇后の井上内親王が宝亀3年3月2日(772年4月9日)に、他戸親王が同年5月27日(7月2日)に相次いで突如廃されたために、宝亀4年1月2日(773年1月29日)に皇太子とされた。その影には式家の藤原百川による擁立があったとされる[注釈 1]。なお井上内親王と他戸親王は同日に同じ幽閉先で逝去したが、他戸親王の実姉(桓武天皇の異母妹にあたる)の酒人内親王を妃として、朝原内親王を儲けた。
天応元年4月3日(781年4月30日)には父から譲位されて天皇に即き、翌日の4日(5月1日)には早くも同母弟の早良親王を皇太子と定め、11日後の15日(5月12日)に即位の詔を宣した。延暦2年4月18日(783年5月23日)に百川の兄の藤原良継の娘の藤原乙牟漏を皇后とし、彼女との間に安殿親王(後の平城天皇)と神野親王(後の嵯峨天皇)を儲けた。また、百川の娘で良継の外孫でもあった夫人の藤原旅子との間には大伴親王(後の淳和天皇)がいる。
右大臣に藤原是公を、中納言に藤原種継を抜擢し、これに大納言の藤原継縄(是公没後に右大臣)を加えた3名が特に重用され、前期の治世を支えた[5]。
延暦4年(785年)9月24~28日に早良親王を内裏に幽閉し藤原種継暗殺の廉により廃太子の上で流罪に処し、早良親王が桓武天皇のいかなる逆鱗にも怯えないと決意し絶食して配流中に薨去するという事件が起こった。これを受け、同年11月25日(785年12月31日)に安殿親王を皇太子とした。また、同年11月10日、交野柏原(現在の大阪府枚方市)において、日本で初めて、天を祀る郊祀を行った。
延暦6年(787年)11月5日に、交野柏原において、2度目の郊祀を行った。
延暦10年(791年)、藤原乙牟漏の亡きあとに神野親王(嵯峨天皇)の乳母を務めた大秦公忌寸浜刀自女に賀美能宿禰の姓を贈る(続日本紀)。
在位中の延暦25年3月17日(806年4月9日)に崩御。宝算70。安殿親王が平城天皇として即位した。
治世
[編集]平城京における肥大化した奈良仏教各寺の影響力を厭い、天武天皇流が自壊して天智天皇流に皇統が戻ったこともあって、当時秦氏が開拓していたものの、ほとんど未開の山城国への遷都を行う。初め延暦3年(784年)に長岡京を造営するが、天災や後述する近親者の不幸・祟りが起こり、その原因を天皇の徳がなく天子の資格がないことにあると民衆に判断されるのを恐れて、わずか10年後の延暦13年(794年)、側近の和気清麻呂・藤原小黒麻呂(北家)らの提言もあり、気学における四神相応の土地相より長岡京から艮方位(東北)に当たる場所の平安京へ改めて遷都した。
また、蝦夷を服属させ東北地方を平定するため、3度にわたる蝦夷征討を敢行、延暦8年(789年)に紀古佐美を征東大使とする最初の軍は惨敗したが、延暦13年の2度目の遠征で征夷大将軍の大伴弟麻呂の補佐役として活躍した坂上田村麻呂を抜擢して、延暦20年(801年)の3度目の遠征で彼を征夷大将軍とする軍を送り、田村麻呂がアテルイら500人の蝦夷を京都へ護送した延暦21年(802年)に蝦夷の脅威は減退、延暦22年(803年)に田村麻呂が志波城を築いた時点でほぼ平定された。
しかし晩年の延暦24年(805年)には、平安京の造作と東北への軍事遠征がともに百姓を苦しめているとの藤原緒嗣(百川の長男)の建言を容れて、いずれも中断している(緒嗣と菅野真道とのいわゆる徳政相論)。
また、軍隊に対する差別意識と農民救済の意識から、健児制を導入したことで百姓らの兵役の負担は解消されたが、この制度も間もなく機能しなくなり、9世紀を通じて朝廷は軍事力がない状態になった。ただし、健児導入の目的について、紀古佐美の遠征軍が騎馬を巧みとする蝦夷に太刀打ちできなかったために、従来の中国大陸・朝鮮半島からの沿岸防備を念頭に置いて編成された農民を徴集した歩兵に代わって対蝦夷戦争に対応した騎兵の確保を目指した軍制改革であったとする新説も出されている[6]。
文化面では『続日本紀』の編纂を発案したとされる。また最澄を還学生(短期留学生)として唐で天台宗を学ばせ、日本の仏教に新たな動きをもたらしたのも桓武天皇治下で、いわゆる「南都六宗」と呼ばれた既存仏教に対しては封戸の没収など圧迫を加えている。また後宮の紊乱ぶりも言われており、それが後の薬子の変へとつながる温床となったともされる。
その他、即位前の宝亀3年には井上内親王と他戸親王の、在位中の延暦4年には早良親王の不自然な薨去といった暗い事件が多々あった。井上内親王や早良親王の怨霊を恐れて延暦19年7月23日(800年8月16日)に後者に「崇道天皇」と追号し、前者は皇后位を復すと共にその墓を山陵と追称したりしている。
治世中は2度の遷都や東北への軍事遠征を主導し、地方行政を監査する勘解由使の設置など、歴代天皇の中でもまれに見る積極的な親政を実施したが、青年期に官僚としての教育を受けていたことや壮年期に達してからの即位がこれらの大規模な政策の実行を可能にしたと思われる。
系譜
[編集]桓武天皇の系譜 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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系図
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34 舒明天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
古人大兄皇子 | 38 天智天皇 (中大兄皇子) | 間人皇女(孝徳天皇后) | 40 天武天皇 (大海人皇子) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
倭姫王 (天智天皇后) | 41 持統天皇 (天武天皇后) | 43 元明天皇 (草壁皇子妃) | 39 弘文天皇 (大友皇子) | 志貴皇子 | 高市皇子 | 草壁皇子 | 大津皇子 | 忍壁皇子 | 長皇子 | 舎人親王 | 新田部親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
葛野王 | 49 光仁天皇 | 長屋王 | 44 元正天皇 | 42 文武天皇 | 吉備内親王 (長屋王妃) | 文室浄三 (智努王) | 三原王 | 47 淳仁天皇 | 貞代王 | 塩焼王 | 道祖王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
池辺王 | 50 桓武天皇 | 早良親王 (崇道天皇) | 桑田王 | 45 聖武天皇 | 三諸大原 | 小倉王 | 清原有雄 〔清原氏〕 | 氷上川継 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
淡海三船 〔淡海氏〕 | 礒部王 | 46 孝謙天皇 48 称徳天皇 | 井上内親王 (光仁天皇后) | 文室綿麻呂 〔文室氏〕 | 清原夏野 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
石見王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
高階峯緒 〔高階氏〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
50 桓武天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
51 平城天皇 | 伊予親王 | 万多親王 | 52 嵯峨天皇 | 53 淳和天皇 | 葛原親王 | 良岑安世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
高岳親王 | 阿保親王 | 54 仁明天皇 | 有智子内親王 | 源信 〔嵯峨源氏〕 | 源融 〔嵯峨源氏〕 | 源潔姫 | 恒貞親王 | 平高棟 | 高見王 | 遍昭 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
在原行平 | 在原業平 | 平高望 〔桓武平氏〕 | 素性 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
后妃・皇子女
[編集]- 皇后:藤原乙牟漏(760年 - 790年) - 藤原良継女
- 夫人(贈皇太后):藤原旅子(759年 - 788年) - 藤原百川女
- 大伴親王(淳和天皇)(786年 - 840年)
- 妃:酒人内親王(754年 - 829年) - 光仁天皇皇女
- 夫人:藤原吉子(? - 807年) - 藤原是公女
- 伊予親王(783年 - 807年)
- 夫人:多治比真宗(769年 - 813年) - 多治比長野女
- 夫人:藤原小屎 - 藤原鷲取女
- 女御:紀乙魚(? - 840年) - 紀木津魚女?
- 女御:百済王教法(? - 840年) - 百済王俊哲女
- 女御:橘御井子 - 橘入居の女
- 女御:藤原仲子 - 藤原家依女
- 女御:橘常子(788年 - 817年) - 橘島田麻呂女
- 女御:藤原正子 - 藤原清成女
- 宮人:坂上又子(? - 790年) - 坂上苅田麻呂女
- 宮人:坂上春子(? - 834年)- 坂上田村麻呂女
- 宮人:藤原河子(? - 838年) - 藤原大継女
- 宮人:藤原東子(? - 816年) - 藤原種継女
- 宮人:藤原平子(? - 833年) - 藤原乙叡女
- 宮人:紀若子(? - ?) - 紀船守女
- 明日香親王(? - 834年)
- 宮人:藤原上子 - 藤原小黒麻呂女
- 滋野内親王(809年 - 857年)
- 宮人:橘田村子 - 橘入居女
- 池上内親王(? - 868年)
- 宮人:河上好(? - ?) - 錦部春人女
- 坂本親王(793年 - 818年)
- 宮人:百済王教仁(? - ?) - 百済王武鏡女
- 太田親王(? - 808年)
- 宮人:百済王貞香(? - ?) - 百済王教徳女
- 駿河内親王(801年 - 820年)
- 宮人:中臣豊子(? - ?) - 中臣大魚女
- 布勢内親王(? - 812年) - 伊勢斎宮
- 女嬬:多治比豊継(? - ?)
- 女嬬:百済永継 - 飛鳥部奈止麻呂女、藤原内麻呂室、冬嗣母
ほか、多数(宮人、女嬬が数10人との説あり)
諱・諡号・追号・異名
[編集]諱は山部(やまべ)[注釈 2]。崩御の後に和風諡号として日本根子皇統弥照尊(やまとねこあまつひつぎいやてりのみこと)が贈られた。また山陵の名をもって柏原(かしわばら)天皇(帝)、天国押撥御宇(あめくにおしひらきあめのしたしらす)柏原天皇とも呼ばれた。
在位中の元号
[編集]陵・霊廟
[編集]陵(みささぎ)は、宮内庁により桃山陵墓地内にある柏原陵(かしわばらのみささぎ)に治定(京都府京都市伏見区桃山町永井久太郎)されている。宮内庁上の形式は円丘。
上記とは別に、伏見区深草大亀谷古御香町にある宮内庁の大亀谷陵墓参考地(おおかめだにりょうぼさんこうち)では、桓武天皇が被葬候補者に想定されている[8]。
在世中に宇多野(うたの)への埋葬を希望したとされるが、不審な事件が相次ぎ卜占によって賀茂神社の祟りであるとする結果が出され、改めて山城国紀伊郡の地が選ばれて『柏原山陵』が営まれた[注釈 3]。大同元年4月7日に埋葬、翌8日には二十一日の法要が行われた(『日本後紀』)。次いで10月11日『柏原陵』に改葬された(『日本後紀』、『類聚国史』巻35引用大同元年10月2日条及び『日本紀略』大同元年10月11日条)と記録に見え、天皇が崩御したその年のうちに最初の陵とは別の陵が築かれて改葬されたと考えられる。これについて同年起きた水害による影響とする説(『大日本史』平城本紀)、山陵とは別に殯宮が設けられていた説[注釈 4]、記事の誤りもしくは埋葬の延期があったとして改葬自体を否定する説、桓武天皇との関係が思わしくなかった平城天皇が亡き父の祟りを恐れて完成した山陵を放棄して改葬を実施した[注釈 5]説、『柏原山稜』は二十一日法要のための緊急的で仮設的なものだった[12]とする説がある。
『延喜式』に記された永世不除の近陵として、古代から中世前期にかけて朝廷の厚い崇敬を集めた。柏原陵の在所は中世の動乱期において不明となり、以後、深草・伏見の間とのみ知られていた。元禄年間の修陵で深草鞍ヶ谷町浄蓮華院境内の谷口古墳が考定され、その後幕末に改めて桃山町の現陵の場所に定められた。もっともその根拠は乏しいと見られ、別に桃山丘陵の頂き付近に真陵の位置を求める説[13]、稲荷山南方の山中に求めるものなど[14]など、諸説がある。このうち桃山丘陵に求める説は、永久元年(1113)『玄番寮牒案』に記す柏原陵の「陵戸田」の分布や、諸文献に見える「稲荷山南野」の記述(『西宮記』、『江家次第』、『拾芥抄』など)から候補地とするには問題があるとする指摘がある[15]。また深草谷口町付近にはかつて「柏原」という地名があったことが『拾遺都名所図会』に見える。以上から近年では稲荷山南方に桓武天皇柏原陵を求める説が盛んである。
『中右記』保安元年(1120)11月25日条には、筆者藤原宗忠が、「荷前使」として「深草(仁明天皇陵のこと)」と「柏原(桓武天皇陵のこと)」とに行ったことが記されるが、それによると両陵は近接していたことが分かる(仁明陵の南を東へ向かっている)。仁明天皇陵は陵寺「嘉祥寺」の中に設けられたが、伏見区深草瓦町の善福寺境内に遺る礎石群がその遺構だと考えられている。『三代実録』貞観8年(866)12月22日条には、仁明陵が「大墓」の西に接していたことが記される。この「大墓」を東西・南北とも11町あった桓武天皇陵のこととする主張があり[16]、とすれば桓武天皇陵は深草瓦町の東方の山中、「深草中ノ郷山町」付近にあったことになる。
桓武陵については鎌倉時代に大規模な盗掘に遭ったことが記録によって知られる。日野資宣の日記『仁部記』文永12年(1275)2月27日条に山陵使の報告書を引用する形で「柏原山稜掘発せらるること、実検言上す。御在所の嶺東西一丈三尺ばかり、南北一丈六尺余掘発する所なり」とあり、またここに「山稜に登ること十許丈、壇の廻り八十余丈」と墳丘の大きさも記される。
皇居では、皇霊殿(宮中三殿の一つ)において、他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。なお、後述するように平安京への遷都を行い、かつ同京最初の天皇となったことにちなんで、明治28年(1895年)に平安遷都1100年を記念して桓武天皇を祀る平安神宮が創祀されている。
百済との関係
[編集]百済王氏等への厚遇
[編集]桓武天皇の生母である高野新笠の出身は、百済系渡来人氏族で史姓の和氏であり、中央政権に顕官を出す氏族ではなく、また新笠の母方の土師氏も有力 な氏族ではなかった。光仁天皇の皇后の井上内親王が廃され、山部親王(桓武天皇)が皇太子となっても、新笠は皇后にはなれず、従三位・夫人の位までであった。
桓武天皇は即位間もなく、天応元年(781年)4月に母・新笠を皇太夫人とし、従兄弟にあたる和家麻呂は異例の出世を遂げ、祖母方の土師氏も、大枝(大江)朝臣・菅原朝臣などの姓を賜った。延暦8年12月28日(790年1月)に母・新笠が薨ずると皇太后位を贈り、延暦9年(790年)1月に新笠を葬る前日、和氏は百済武寧王の子孫であり、百済王族の遠祖である都慕王(東明王)は河伯の娘が日光により身籠ったものであるとして、これにちなんで新笠に「天高知日之子姫尊」の諡号を贈った[17]。さらに、同年2月に「百済王氏は朕の外戚である」と詔を発し、百済王氏の位階を進めた[18]。百済王氏を外戚と称することで、母・新笠の出身氏族を名目上高貴なものにし、その結果母の身分を上昇させようとした、と考えられる。在位中、百済王氏が本拠としていた交野にたびたび狩猟のため行幸し、百済王氏を重用した。また、後宮に百済王氏の教法・教仁・貞香を召しいれ、百済王明信を尚侍としている[19]。
天皇明仁の発言
[編集]平成13年(2001年)12月18日、天皇誕生日前に恒例となっている記者会見において、天皇明仁(桓武天皇の男系子孫)は翌年に予定されていたサッカーワールドカップ日韓共催に関する「おことば」の中で、「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、『続日本紀』[17]に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く、この時以来、日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。また、武寧王の子、聖明王は、日本に仏教を伝えたことで知られております。」との発言を行った[20]。
この発言は、テレビ各社のニュースでは重ねて報じられたが、日本の新聞各紙の報道は簡素だった[注釈 6]。韓国では大きな反響を呼び、「皇室は韓国人の血筋を引いている」、「皇室百済起源論」「日王が秘められた事実を暴露」などの発言意図から逸脱した報道も多く行われた[21][22]ほか、当時の金大中大統領が年頭記者会見で歓迎の意を表するほどだった[23]。なお、天皇明仁は平城遷都1300年記念祝典の挨拶でも、百済とのゆかりについて同様の趣旨を発言している[24]。
登場作品
[編集]- 小説
- 三田誠広『桓武天皇:平安の覇王』作品社、2004年6月。ISBN 4-87893-649-5。
- 映画
- テレビドラマ
- 火怨・北の英雄 アテルイ伝(2013年、NHK) - 演:近藤正臣
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 天皇は後年、「緒嗣の父(百川)微(な)かりせば、予豈(あ)に帝位を践むを得んや」との詔を発している[4]。
- ^ 当時の皇子女の諱は乳母の氏名(うじな)が採用される慣例であったため、「山部」という諱も山部氏の女性が乳母であったためと思われ、その場合の乳母は山部子虫であったと推定される[7]。
- ^ 山田邦和によれば、桓武天皇は生前に埋葬を希望したのは宇多野ではなく深草山であり[9]、平城京にならって都の北側に陵墓を築こうとしたのは皇太子(後の平城天皇)の意向であったとする。ところが、宇多野は賀茂神社を祀る賀茂県主氏などの在地勢力の勢力圏に近いために彼らの反発を招き、それが宇多野への埋葬断念につながったとされている[10]。
- ^ 黒板伸夫・森田悌編 『日本後紀 訳注日本史料』(集英社、2003年)、pp. 1198: 補注「柏原山陵」の解釈。
- ^ 西本昌弘によれば、『扶桑略記』に大同元年11月頃の話として、平城天皇が神野親王(嵯峨天皇)の皇太弟廃位を画策し、これを知った親王が父が眠る柏原山陵を遙拝したところ、平安京中を烟気が覆って昼なお暗い状態になった。驚いた天皇が占いを命じたところ、柏原山陵の祟りという結果が出たために、これを恐れた天皇が企てを断念したという逸話が載せられている。西本は『扶桑略記』が記すよりも少し前の時期に実際に廃太子の計画が存在しており、廃太子計画の失敗とそれに伴う父帝の祟りの可能性を危惧した天皇が改葬によって祟りを鎮めようとしたとしている[11]。
- ^ 主要全国紙で本文において「ゆかり発言」を取り上げたのは『朝日新聞』のみであり、『毎日』『読売』『産経』の主要諸紙は「おことば」を全文掲載したものの、この「ゆかり発言」は掲載せずに愛子内親王の話題を取り上げるのに留まった。
出典
[編集]- ^ 村尾 1987, p. 46.
- ^ 村尾 1987, p. 1.
- ^ 村尾 1987, p. 248.
- ^ 『続日本後紀』承和10年7月庚戌(23日)条
- ^ 西本昌弘「長岡京前期の政治的動向」『平安前期の政変と皇位継承』吉川弘文館、2022年 ISBN 978-4642046671 P75-104.(初出:『条里制・古代都市研究』36号、2021年)
- ^ 吉川真司「馬からみた長岡京時代」(初出:国立歴史民俗博物館 編『桓武と激動の長岡京時代』山川出版社、2009年/所収:吉川『律令体制史研究』岩波書店、2022年 ISBN 978-4-00-025584-4)2022年、P102-103.
- ^ 佐伯『新撰姓氏録の研究』
- ^ 外池昇『事典陵墓参考地 もうひとつの天皇陵』(吉川弘文館、2005年)pp. 49-52。
- ^ 『日本紀略』延暦11年8月4日条
- ^ 山田邦和 著「平安時代前期の陵墓選地」、古代學協會 編『仁明朝史の研究 承和転換期とその周辺』角田文衞監修、思文閣出版、2011年2月。ISBN 978-4-7842-1547-8 。
- ^ 西本昌弘「桓武改葬と神野親王廃太子計画」『平安前期の政変と皇位継承』(吉川弘文館、2022年), pp. 145-156:初出:『続日本紀研究』359号(2005年)
- ^ 加藤繁生「桓武天皇柏原陵の所在について(上)」(『史迹と美術 882号』)
- ^ 山田邦和『歴史検証天皇陵』新人物往来社〈別冊歴史読本 78〉、2001年7月、134頁。ISBN 4-404-02778-8。
- ^ 加藤繁生(前掲)、渡里恒信「桓武天皇陵と仁明天皇陵の所在地」(続日本紀研究398号)、来村多加史『風水と天皇陵』
- ^ 加藤繁生(前掲)
- ^ 加藤繁生「桓武天皇柏原陵の所在について(下)『史迹と美術 883号』、渡里恒信(前掲)
- ^ a b 『続日本紀』巻第四十「《延暦九年(七九〇)正月壬子【十五】(#延暦八年(七八九)十二月附載)》壬午。葬於大枝山陵。皇太后姓和氏。諱新笠。贈正一位乙継之女也。母贈正一位大枝朝臣真妹。后先出自百済武寧王之子純陀太子。皇后容徳淑茂。夙著声誉。天宗高紹天皇竜潜之日。娉而納焉。生今上。早良親王。能登内親王。宝亀年中。改姓為高野朝臣。今上即位。尊為皇太夫人。九年追上尊号。曰皇太后。其百済遠祖都慕王者。河伯之女感日精而所生。皇太后即其後也。因以奉諡焉。」 P4473《巻首》続日本紀巻第四十〈起延暦八年正月、尽十年十二月。〉」
- ^ 『続日本紀』巻第四十「《延暦九年(七九〇)二月甲午【廿七】》○甲午…(中略)…是日。詔曰。百済王等者朕之外戚也。今所以擢一両人。加授爵位也。」 P4473《巻首》続日本紀巻第四十〈起延暦八年正月、尽十年十二月。〉」
- ^ 山下剛司「百済王氏存続の要因」(『佛教大学総合研究所紀要』 21号、2014年)35-54
- ^ 宮内庁. “天皇陛下のお誕生日に際しての記者会見の内容”. 2008年11月7日閲覧。
- ^ 朴正薫 (2001年12月23日). “日王、朝鮮半島との血縁関係を初めて言及”. 朝鮮日報. 2008年11月7日閲覧。
- ^ 金基哲 (2001年12月24日). “「日王は百済の末裔」韓国人学者の主張”. 朝鮮日報. 2008年11月7日閲覧。
- ^ 『毎日新聞』2002年1月15日
- ^ 金剛学園出演「歌垣」が結ぶ韓日中 平城遷都祭「花いちもんめ」一緒に (民団新聞) [1]
参考文献
[編集]- 井上満郎『桓武天皇 当年の費えといえども後世の頼り』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2006年8月。ISBN 4-623-04693-1。
- 緒形隆司『暁の平安京 桓武天皇史話』光風社出版、1994年1月。ISBN 4-87519-611-3。
- 佐伯有清『新撰姓氏録の研究 研究編』吉川弘文館、1963年4月。ISBN 4-642-02110-8。
- 林睦朗『桓武朝論』雄山閣出版〈古代史選書 7〉、1994年4月。ISBN 4-639-01222-5。
- 村尾次郎『桓武天皇』(新装版)吉川弘文館〈人物叢書 新装版 112〉、1987年7月。ISBN 4-642-05085-X。
関連項目
[編集]- 勘解由使
- 御霊信仰
- 慈眼堂 (大津市) - 桓武天皇御骨塔在所
- 令外官
- 最澄 - 桓武天皇の内供奉十禅師
- 陰陽師 (映画) - 桓武天皇の治世
- 桓武海山
- 八須夫人 - 第19代百済王・久尓辛王の生母、倭人であることが有力