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用明天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
用明天皇

在位期間
585年10月3日? - 587年5月21日?
敏達天皇14年9月5日 - 用明天皇2年4月9日
時代 古墳時代
先代 敏達天皇
次代 崇峻天皇

誕生 不詳
崩御 587年5月21日?
陵所 磐余池上陵河内磯長陵(河内磯長原陵)
漢風諡号 用明天皇
和風諡号 橘豊日天皇
池辺?[注 1]
別称 大兄皇子
橘豊日命
父親 欽明天皇
母親 蘇我堅塩媛
皇后 穴穂部間人皇女
子女 田目皇子
聖徳太子
当麻皇子
来目皇子
殖栗皇子
茨田皇子
酢香手姫皇女
皇居 磐余池辺雙槻宮
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用明天皇(ようめいてんのう、生年不詳[1] - 587年5月21日?〈用明天皇2年4月9日〉)は、日本の第31代天皇(在位:585年10月3日?〈敏達天皇14年9月5日〉- 587年5月21日?〈用明天皇2年4月9日〉)[注 2]

諡号・異名

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和風諡号は、「日本書紀」では橘豊日天皇(たちばなのとよひのすめらみこと)、「古事記」では橘豊日命(たちばなのとよひのみこと)[注 3]という。漢風諡号の「用明天皇」は代々の天皇と共に淡海三船によって名付けられたとされる。

なお池辺皇子(いけのべのみこ)というのは、「元興寺伽藍縁起并流記資財帳」の表記に基づくものであり、日本書紀で記されている同名の人物と同一かは明らかではない。また、即位前の名称として大兄皇子(おおえのみこ)[注 4]とも称する。

系譜

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天皇系図 26~37代

欽明天皇の第四皇子。母は蘇我稲目の娘の堅塩媛。同母妹に推古天皇。また、高向王(寶女王(のちの皇極天皇・斉明天皇)の最初の夫)の祖父とされる。

系図

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27 安閑天皇
 
28 宣化天皇
 
29 欽明天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
石姫皇女
(欽明天皇后)
 
上殖葉皇子
 
30 敏達天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
31 用明天皇
 
33 推古天皇
 
32 崇峻天皇
 
穴穂部間人皇女
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大河内稚子媛
(宣化天皇后)
 
十市王
 
押坂彦人大兄皇子
 
春日皇子
 
大派皇子
 
難波皇子
 
聖徳太子
(厩戸皇子)
 
来目皇子
 
当麻皇子
 
殖栗皇子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
火焔皇子
 
多治比古王
 
 
 
 
 
 
茅渟王
 
 
 
 
 
栗隈王
 
山背大兄王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
多治比嶋
多治比氏
 
 
 
 
 
 
35 皇極天皇
37 斉明天皇
 
36 孝徳天皇
 
美努王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
有間皇子
 
橘諸兄
(葛城王)
橘氏


皇居

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都は磐余池辺雙槻宮(いわれのいけのへのなみつきのみや)。「日本書紀」によると磐余池辺雙槻宮は5世紀前半に履中天皇が造った磐余池のほとりに建設されたとされている。

現在の奈良県桜井市阿部あるいは同市池之内などの説があったが、2011年に天香久山から北東に数百メートルの位置にある発掘現場(橿原市東池尻町221)で古代の堤跡とその堤上の大型建物跡が発見された。周囲の地形は弧状になっており、人工的に造られた堤跡とみられる。池は平安時代頃まで存在したが、その後埋め立てられ耕作地として利用されている。堤跡上には東西4メートル、南北17.5メートル以上の大型建築物とその他の建物6つ、塀跡が見つかっており、磐余池辺雙槻宮である可能性が高いと報道されている[5][6]

大連・大臣

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大連大臣は、物部守屋蘇我馬子がそのまま引き継いだ。

即位および政策

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敏達天皇の崩御を受け即位蘇我稲目の孫でもある用明天皇は、敏達天皇とは違って崇仏派であり仏法を重んじ、実質、王朝において仏教を公認、それが後の推古天皇以降の仏教隆盛につながった。

一方、危機感を持った廃仏派の筆頭である物部守屋は、欽明天皇の皇子の一人の穴穂部皇子と通じていた。天皇は天然痘のため、在位2年足らずの用明天皇2年(587年?)4月9日(古事記では4月15日)に崩御した。宝算は36[7]、41[8]、48[9]、67[10]、69[11]など諸説ある。

なお、日本書紀に明記されている同母妹の推古天皇の生年(554年)や他12人もの同母兄弟姉妹の存在から、530年代後半から551年頃の生まれと推定することができるが、正確な生年・崩年は不明である。

陵・霊廟

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(みささぎ)は、宮内庁により大阪府南河内郡太子町大字春日にある河内磯長原陵(こうちのしながのはらのみささぎ、北緯34度31分0.41秒 東経135度38分39.13秒 / 北緯34.5167806度 東経135.6442028度 / 34.5167806; 135.6442028 (河内磯長原陵(用明天皇陵)))に治定されている[12][13][14]。宮内庁上の形式は方丘。遺跡名は「春日向山古墳」で、一辺約60メートルの方墳である[14]

「日本書紀」では天皇は崩御後の7月21日に「磐余池上陵(いわれのいけのへのみささぎ)」に葬られたうえで、推古天皇元年(593年)9月に「河内磯長陵」に改葬されたとする[14][15]。一方、「古事記」では「科長中陵」に葬られたとする[14]。「延喜式諸陵寮では用明天皇陵は遠陵の「河内磯長原陵」として記載され、河内国石川郡の所在で、兆域は東西2町・南北3町で守戸3烟を毎年あてるとする[14][15]。幕末に至るまで所在が明らかな陵とされ、幕末・明治期の修補・整備を経て現在に至っている[14]。ただし考古学的な詳細は明らかでない。初葬地とされる「磐余池上陵」の所在もまた明らかでないが、「池上(池辺)」の地名を持つことから前述の池辺双槻宮付近と推測する説がある[14]。なお、現陵の一帯ではほかに敏達天皇陵・推古天皇陵・聖徳太子墓・孝徳天皇陵があり、用明天皇陵を加えたこれら5陵墓は梅花になぞらえて「梅鉢御陵」とも称される[15]

また皇居では、皇霊殿宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに用明天皇の霊が祀られている。

後裔氏族

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用明天皇の嫡流子孫(山背大兄王ら)は、皇極天皇2年(643年)に断絶している[16]

嫡流以外の後裔として、「新撰姓氏録」では次の氏族が記載されている[16]

  • 左京皇別 登美真人 - 出自は諡用明皇子の来目王(来目皇子)。
  • 左京皇別 蜷淵真人 - 出自は諡用明皇子の殖栗王(殖栗皇子)。
  • 右京皇別 当麻真人 - 用明皇子の麿古王(当麻皇子)の後。

在位年と西暦との対照表

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「新唐書」の目多利思比孤

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隋書」卷81 列傳第46 東夷にある俀王「姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩雞彌」は、「新唐書」東夷伝日本伝に「用明 亦曰目多利思比孤開皇末 始與中國通」とあり用明天皇が多利思比孤であると記述している。

その他

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聖徳太子による法隆寺の建立は、元々用明天皇の病気平癒のために天皇の願いを受けて太子が寺の建立を誓ったからだとする説がある。また、聖徳太子の父ということで後世様々な説話に引用され、江戸時代には近松門左衛門が「用明天皇職人鑑」という浄瑠璃作品を発表している。

明治3年1870年)に仲恭天皇弘文天皇が追贈されるまで、在位期間が最も短い天皇であった。

脚注

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注釈

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  1. ^ 「元興寺伽藍縁起并流記資財帳」の表記に基づく
  2. ^ 「古事記」用明天皇段に「弟(おと)、橘の豊日命、池邊宮に坐しまして、天の下治らしめすこと、三歳(みとせ)なりき。この天皇、稲目(いなめ)の大臣の女、意富藝多志比売(おほぎたしひめ)を娶して、生ませる御子、多米(ため)王。(分注、一柱。)また庶妹開人穴部(ままいもはしひとのあなほべ)王を娶して、生みませる御子、上宮(うえつみや)の厩戸豊聡耳(うまやどのとよとみみ)命。(この後、四人の御子が生まれ、また比売(ひめ)を娶り、二人の御子が生まれると記す。)この天皇。(分注、丁未の年の四月十五日に崩りましき。)御陵は石寸(いわれ)の掖上(いけのうえ)にありしを、後に科長(しなが)の中の陵に遷(うつ)しき」とある。池邊宮は、奈良県磯城郡。上宮の厩戸豊聡耳命は、聖徳太子
  3. ^ 即位前の名称として「橘豊日皇子」と表記されることがあったが、和風諡号の誤用にあたるため、現在ではほとんど用いられない。
  4. ^ 大兄皇子の「大兄」とは皇位継承資格を示す称号であり、実名ではない。
  5. ^ 欽明天皇の妃堅塩媛を誤伝したものとされる(日本古典文学大系新装版「日本書紀」の頭注参照)。
  6. ^ 「日本書紀」用明天皇紀に、推古天皇の代まで斎宮をつとめ、後に葛城に帰り亡くなった、との記述が推古天皇紀にある旨の注がある。ただし該当記事は推古紀にはない。

出典

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  1. ^ 用明天皇(古代氏族) & 2010年, p. 681.
  2. ^ a b c d e 「古事記」
  3. ^ a b c 日本書紀
  4. ^ 本朝皇胤紹運録
  5. ^ “「磐余池」か、堤跡発見 日本書紀・万葉の最古ダム”. 中日新聞. (2011年12月16日). http://www.chunichi.co.jp/s/article/2011121690001320.html 
  6. ^ “用明天皇 眺めた磐余池”. 読売新聞. (2011年12月16日) 
  7. ^ 水鏡
  8. ^ 神皇正統記」、「如是院年代記」、「和漢合符」
  9. ^ 「仁寿鏡」、「東寺王代記」
  10. ^ 鴨脚本「皇代記」
  11. ^ 「皇年代略記」、「興福寺略年代記」
  12. ^ 天皇陵(宮内庁)。
  13. ^ 宮内省諸陵寮編「陵墓要覧」(1934年、国立国会図書館デジタルコレクション)11コマ。
  14. ^ a b c d e f g 河内磯長原陵(国史).
  15. ^ a b c 向山古墳(平凡社) & 1986年.
  16. ^ a b 用明天皇(国史).

参考文献

[編集]
  • 国史大辞典吉川弘文館 
    • 遠山美都男 「用明天皇」石田茂輔 「河内磯長原陵(用明天皇項目内)」
  • 「用明天皇」『日本古代氏族人名辞典 普及版』吉川弘文館、2010年。ISBN 978-4642014588 
  • 「向山古墳」『日本歴史地名大系 28-2 大阪府の地名』平凡社、1986年。ISBN 978-4582490282 

関連項目

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外部リンク

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