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藤原家依

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原家依
時代 奈良時代
生誕 天平15年(743年
死没 延暦4年6月20日785年7月30日
官位 従三位参議
主君 称徳天皇光仁天皇桓武天皇
氏族 藤原北家
父母 父:藤原永手、母:藤原鳥養の娘
兄弟 家依雄依曹司藤原巨勢麻呂室、
藤原内麻呂
藤原良継の娘、鷹高佐美丸の娘
三起、吉継、上列、末茂、仲子
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藤原 家依(ふじわら の いえより)は、奈良時代公卿藤原北家左大臣藤原永手の長男。官位従三位参議

経歴

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天平神護元年(764年美濃介を務めていた際、称徳天皇重祚に伴う大嘗祭美濃国が由機(悠紀)に定められた事から、国守の小野竹良と共に昇叙され、家依は従五位下叙爵される[1]。翌天平神護2年(765年式部少輔侍従に任ぜられる。こののち、父の左大臣藤原永手太政官の首班にある中で、家依も神護景雲3年(769年正五位下次いで正五位上、神護景雲4年(770年従四位下と、称徳朝末にかけて急速に昇進し、大和守丹波守と地方官も兼帯した。

宝亀元年(770年光仁天皇の即位に伴い従四位上に昇叙される。翌宝亀2年(771年)父の永手が没するが、家依は皇后宮大夫・式部大輔・治部卿右衛門督を歴任する一方、宝亀6年(775年正四位下、宝亀7年(776年)正四位上と昇進し、宝亀8年(777年参議に任ぜられ公卿に列した。

天応元年(781年従三位兵部卿に叙任。桓武朝では、後任の参議であった大伴家持藤原小黒麻呂藤原種継らが次々と中納言に任ぜられる傍らで、家依は参議から昇進できないまま、延暦4年(785年)6月20日薨去享年43[2]。最終官位は参議兵部卿従三位兼侍従下総守

官歴

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続日本紀』による。

系譜

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尊卑分脈』による。

脚注

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  1. ^ 『続日本紀』天平神護元年11月23日条
  2. ^ 公卿補任』による。『尊卑分脈』では46とする。
  3. ^ 『日本後紀』延暦16年2月15日条では「二起」とする。
  4. ^ 藤原宗成の父

出典

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