多治比長野
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時代 | 奈良時代 |
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生誕 | 慶雲3年(706年)[1] |
死没 | 延暦8年12月22日(790年1月11日) |
別名 | 永野 |
官位 | 従三位・参議 |
主君 | 称徳天皇→光仁天皇→桓武天皇 |
氏族 | 多治比氏 |
父母 | 父:多治比家主 |
子 | 真宗 |
多治比 長野(たじひ の ながの)は、奈良時代の公卿。名は永野とも記される。大納言・多治比池守の孫。鋳銭長官・多治比家主の子。官位は従三位・参議。
経歴
[編集]天平神護元年(765年)従五位下に叙爵。称徳朝では刑部大判事・造東内次官・大和介を経て、神護景雲3年(769年)従五位上に叙せられる。
光仁朝では、宝亀2年(771年)正五位下、宝亀7年(776年)正五位上、宝亀9年(778年)従四位下と順調に昇進する一方、宝亀8年(777年)民部大輔を挟んで、三河守・出雲守・摂津大夫と主に地方官を歴任した。
桓武朝でも、延暦3年(784年)従四位上、延暦4年(785年)正四位上と引き続き順調に昇進を続けながら、伊勢守・近江守といった地方官や、刑部卿を歴任する。延暦6年(787年)従三位に叙せられて公卿に列し、延暦8年(789年)正月に参議に任ぜられたが、同年12月22日薨去。享年84。最終官位は参議兵部卿従三位。
官歴
[編集]『続日本紀』による。
- 時期不詳:正六位上
- 天平神護元年(765年) 正月7日:従五位下。
- 天平神護3年(767年) 8月11日:刑部大判事。12月9日:造東内次官
- 神護景雲3年(769年) 8月19日:大和介。11月9日:従五位上
- 宝亀2年(771年) 11月25日:正五位下
- 宝亀3年(772年) 4月20日:三河守
- 宝亀7年(776年) 正月7日:正五位上。3月6日:出雲守
- 宝亀8年(777年) 10月13日:民部大輔
- 宝亀9年(778年) 正月16日:従四位下
- 宝亀10年(779年) 9月28日:摂津大夫
- 天応元年(781年) 4月20日:伊勢守
- 延暦2年(783年) 6月21日:刑部卿
- 延暦3年(784年) 正月7日:従四位上。3月14日:伊勢守
- 延暦4年(785年) 正月7日:正四位上(越階)
- 延暦5年(786年) 正月24日:近江守
- 延暦6年(787年) 正月7日:従三位
- 延暦7年(788年) 7月25日:兵部卿
- 延暦8年(789年) 正月6日:参議。12月22日:薨去(参議兵部卿従三位)