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手塚義明 (作詞家)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
手塚 義明
てづか よしあき
別名 蘇堂(号)[1]
生誕 (1881-11-07) 1881年11月7日[2]
出身地 日本の旗 日本 山梨県[2]
死没 (1965-10-17) 1965年10月17日(83歳没)[3]
ジャンル 国民歌市町村歌校歌
職業 作詞家、旧制中学校教諭
日本赤十字社副参事[2]
活動期間 大正 - 昭和時代前期

手塚 義明(てづか よしあき、1881年11月7日[2] - 1965年10月17日[3])は、大正から昭和前期にかけて活動した日本作詞家日本赤十字社副参事を歴任。

山梨県出身[2]。号は蘇堂(そどう)[1]

経歴

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1902年(明治35年)に山梨県師範学校を卒業し、母校の国語教諭として児童雑誌『活児童』の立ち上げに携わる[4]。その後、福島県師範学校を経て旧制鹿児島中学校教諭を歴任した[2]

1923年(大正12年)、新潟県で開校した旧制六日町中学校の初代校長在職時、大正天皇の「国民精神作興ニ関スル詔書」渙発に呼応して県が懸賞募集した「国民精神作興の歌」で応募作「我等は太陽民族(ひのたみ)」が一等入選し、信時潔の作曲で発表される。5年後の1928年(昭和3年)、旧制三条中学校校長在職中に新潟市が11年前に土井晩翠が作詞したものの未完成に終わった「新潟市歌」の作詞を改めて依頼され、信時潔の作曲を得て完成した[5]

定年退職後の1934年(昭和9年)、日本赤十字社副参事に迎えられる[2]。1965年(昭和40年)10月17日死去[3]。享年85(満83歳没)。没後の1978年(昭和53年)、新潟県立三条高校同窓会により遺稿集が刊行された。

作品

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  • 『蘇堂手塚義明先生遺稿抄』(新潟県立三条高等学校同窓会、1978年)[注 1]

国民歌

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  • 国民精神作興の歌「我等は太陽民族」(作曲:信時潔)[3]

自治体歌

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  • 新潟市歌(作曲:信時潔) - 初代、1969年(昭和44年)廃止。

校歌

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参考文献

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  • 『大衆人事録』昭和15年改訂13版(帝国秘密探偵社、1940年) NCID BN07185715
  • 『著作権者名簿』訂4版(日本放送協会、1942年) NCID BB04638400
  • 山梨県 編『山梨県政六十年誌』(山梨県庁、1952年) NCID BN06618974
  • 新潟市政進展史編さん部 編『新潟市政進展史』(新潟市役所、1957年) NCID BN06084621

脚注

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注釈

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  1. ^ 新潟県立図書館所蔵。

出典

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  1. ^ a b 著作権者名簿4訂(1942), p204
  2. ^ a b c d e f g 大衆人事録13版(1940), p508
  3. ^ a b c d 国民精神作興之歌『我等は太陽民族』”. 東京藝術大学附属図書館. 東京芸術大学. 2024年3月14日閲覧。
  4. ^ 山梨県(1952), p1126
  5. ^ 市政進展史2(1957), pp85-86

関連項目

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