扶余氏
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概要
[編集]古記云 天帝子降于訖升骨城(在大遼醫州界) 乘五龍車 立都稱王 國號北扶餘 自稱名解慕漱 生子名扶婁 以解爲氏焉 王後因上帝之命 移都于東扶餘 東明帝繼北扶餘而興 立都于卒本州 爲卒本扶餘 卽高句麗之始[1]。 — 『三国遺事』 卷1 紀異1 北扶餘
北扶餘の古記によると、天帝が訖升骨城に降臨して都を定め、北夫餘を建国し自ら解慕漱を名乗って解を姓とした。以降、都を東夫餘に移った。その後、東明帝が北夫餘に続き卒本夫餘を建国し、即ち高句麗の始祖となった。百済の初代王である温祚王は北夫餘に続き卒本夫餘を建国した高句麗の東明帝(東明聖王)の子孫であり、高句麗の国姓である高氏から夫餘氏を名乗った[2]。
韓国のメディアによると、『三国史記』と中国の歴史書などの記録を総合して見たら、現在の扶余徐氏と宜寧余氏は扶餘氏の後裔だと推定される[3][4]。
脚注
[編集]- ^ http://contents.nahf.or.kr/item/item.do?levelId=gb.d_0030_0100
- ^ “부여씨” (朝鮮語). terms.naver.com. 2022年10月13日閲覧。
- ^ “한성백제 왕족의 후손을 찾습니다” (朝鮮語). 신아일보 (2014年3月9日). 2022年8月14日閲覧。
- ^ “한성백제 왕족의 후손을 찾습니다” (朝鮮語). 아시아경제 (2014年3月7日). 2022年8月14日閲覧。