捜諧若鞮単于
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捜諧若鞮単于(呉音:しゅうがいにゃくたいぜんう、漢音:しゅうかいじゃくていせんう、拼音:Sōuxiéruòdīchányú、? - 紀元前12年)は、中国前漢時代の匈奴の単于。呼韓邪単于と第2閼氏(大閼氏)との子で、復株累若鞮単于の弟。捜諧若鞮[1]単于というのは単于号で、姓は攣鞮氏、名は且麋胥(しゃびしょ)という。
生涯
[編集]呼韓邪単于と第2閼氏(大閼氏)との間に生まれる。
建始2年(前31年)、兄の復株累若鞮単于が即位すると、王位継承の規則[2]により次の弟であった且麋胥は左賢王[3]に任ぜられた。
鴻嘉元年(前20年)、復株累若鞮単于が死去したので、左賢王であった且麋胥が捜諧若鞮単于として即位した。捜諧若鞮単于は子の左祝都韓王である朐留斯侯を漢に遣わして入侍させ、弟の且莫車を左賢王とした。
元延元年(前12年)、捜諧若鞮単于は明年の元延2年(前11年)に入朝するという手続きをしたが、その年に病死してしまう。そこで弟の左賢王且莫車が立ち、車牙若鞮単于となった。
子
[編集]- 左祝都韓王(朐留斯侯)
脚注
[編集]- ^ “若鞮”とは匈奴の言葉で“孝”という意味である。当時、漢の歴代皇帝が帝号に“孝”をつけていたため、匈奴は復株累若鞮単于以降、それを真似るようになった。<『漢書』匈奴伝下、『後漢書』南匈奴列伝>
- ^ 復株累若鞮単于の即位に際して、呼韓邪単于の年少者でも第一夫人(顓渠閼氏)の子に継がせるか、年長者で第二夫(大閼氏)人の子を継がせるかで意見が分かれたので、最終的に第一夫人・第二夫人に関係なく、年上から順に単于位を継承させる規則を立てた。<『漢書』匈奴伝下>
- ^ 左賢王は匈奴における王位継承第一位。
参考資料
[編集]- 『漢書』(匈奴伝下)