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敦賀城の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

敦賀城の戦い(つるがじょうのたたかい)は越前朝倉氏の内乱である。

朝倉孝景の四男である景総は、相撲を取る際に弟の教景朝倉宗滴の兄)を殺害した。教景は慈視院光玖の養子となっていたため、光玖は激怒した。景総は南条郡慈眼寺に逃げ込み、僧となったが、教景の母の強い憤りにより、越前を離れざるを得なくなり、管領細川政元に仕えることになったという。

敦賀郡司の朝倉景豊は、景総と結託し、当主の朝倉貞景に対して謀反を企てた。景豊は景総の娘婿であり、鳥羽氏、勝蓮華氏、朝倉宗滴の妻も景豊の娘であったことから、これらの縁を期待しての謀反だった。

だが宗滴は貞景に通報し、1503年文亀3年)貞景は直ちに数千騎の軍勢を率いて敦賀城を包囲した。景豊の家臣は皆離反し、敦賀城は落城、景豊は滅亡した。[1]

貞景にとって越前の一国支配が目的であり、それはこの叛乱を鎮圧することによってなされた。[2]

脚注

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  1. ^ 『福井県史』通史編2 中世”. www.library-archives.pref.fukui.lg.jp. 2024年10月17日閲覧。
  2. ^ 朝倉氏の歴史”. 福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館 朝倉氏の戦国城下町一乗谷の全体像や歴史的価値を楽しみながら学べます. 2024年10月17日閲覧。