斎藤才三
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名前 | ||||||
カタカナ | サイトウ サイゾウ | |||||
ラテン文字 | SAITO Saizo | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1908年9月24日[1] | |||||
出身地 | 大阪府 | |||||
没年月日 | 2004年 | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | GK | |||||
ユース | ||||||
19xx-1929 | 関西学院大学 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
関学クラブ | ||||||
代表歴2 | ||||||
1930 | 日本 | 2 | (0) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。 2. 2015年12月1日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
斎藤 才三(さいとう さいぞう、 1908年9月24日 - 2004年)は大阪府出身の経営者、サッカー選手。
人物
[編集]父親は貿易商であり大阪府で生まれた[2]。
帝塚山学院小学校、桃山中学校を経て[2]、関西学院高等商業学部(現在の関西学院大学商学部)に入学[1]。在学中はサッカー部に所属し1年次よりスタメンGKに定着[2]。同級生に後藤靱雄がおり、1929年10月に開催された明治神宮大会兼ア式蹴球全國優勝競技會(第9回天皇杯全日本サッカー選手権大会)に優勝するなどの成績を残した[3]。
1930年3月に卒業[1]。同年5月に開催された第9回極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出され、フィリピン代表戦など2試合に出場し、大会優勝に貢献した[4]。
なお、卒業後はイングランドのブリストル大学に留学、イングランドサッカーに関する知識を得て、帰国後の1933年4月に大阪毎日新聞社に入社。全国中等学校蹴球選手権大会の運営、報道に関わり、1940年秋頃に退職した[3]。
その後、日野ルノー販売(日野自動車販売を経て、現在の日野自動車)に入社[1]。1957年6月に同社取締役、同年11月に同社常務取締役、1963年5月に同社専務取締役、1966年9月に近畿日野モーター(現在の大阪日野自動車)の取締役社長、1967年11月に日野自動車販売の取締役を夫々歴任[1]。
1968年5月に日野車体工業の代表取締役社長に就任[1]。1976年5月から1980年まで朝日車両工業(大阪府)の監査役も兼任した。1980年6月に社長職を退任して同社の代表取締役会長に就任。1987年6月に日野車体工業の社長を退任して同社の取締役相談役に就任[5]。1989年3月期を以て取締役を退任した[1]。
代表歴
[編集]出場大会
[編集]試合数
[編集]- 国際Aマッチ 2試合 0得点(1930)
日本代表 | 国際Aマッチ | |
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年 | 出場 | 得点 |
1930 | 2 | 0 |
通算 | 2 | 0 |
出場
[編集]No. | 開催日 | 開催都市 | スタジアム | 対戦相手 | 結果 | 監督 | 大会 |
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1. | 1930年05月25日 | 東京都 | 明治神宮外苑競技場 | フィリピン | ○7-2 | 鈴木重義 | 極東選手権 |
2. | 1930年05月29日 | 東京都 | 明治神宮外苑競技場 | 中華民国 | △3-3 | 極東選手権 |
出典
[編集]- ^ a b c d e f g 日野車体工業株式会社 有価証券報告書(1988年3月期)、2015年12月1日閲覧
- ^ a b c “田辺五兵衛とともに桃山中学をトップに、ゴットンとともに関学を関西ナンバーワンに。昭和初期の日本一のGK 斎藤才三(中)”. 賀川サッカーライブラリー (2009年6月). 2015年12月1日閲覧。
- ^ a b “関学を日本一に、極東大会で日本をアジア一に、大会主催社の記者として珠玉の批評を残した 斎藤才三(下)”. 賀川サッカーライブラリー (2009年7月). 2015年12月1日閲覧。
- ^ “第9回極東選手権大会”. 日本サッカー協会. 2015年12月1日閲覧。
- ^ 「日野車体工業社長に山内一郎氏」朝日新聞 1987年05月29日、2016年3月5日閲覧