斎藤高利
時代 | 戦国時代 |
---|---|
生誕 | 不詳 |
死没 | 不詳 |
別名 | 通称:次郎 |
官位 | 加賀守 |
主君 | 大内義興→大内義隆→毛利隆元 |
斎藤 高利(さいとう たかとし)は、戦国時代の武将。大内氏家臣。通称は次郎。後に加賀守の官途名を名乗った。
生涯
[編集]安芸国への出陣
[編集]大永3年(1523年)4月11日、武田光和らに支援された友田興藤が厳島神主を自称し、大内氏に叛旗を翻す。興藤は佐西郡桜尾城に入城し、己斐城、石道本城[注釈 1]も攻略した[1]。さらに6月、出雲国の尼子経久が安芸国に侵入し、平賀氏、毛利氏、吉川氏ら安芸国諸勢力を従えて大内氏の東西条領の主要拠点・鏡山城を陥落させた[2]。これにより、安芸国における大内氏の勢力は大きく後退した。
同年8月1日、弘中武長を指揮官とする大内水軍が周防国大島郡遠崎(現在の山口県柳井市遠崎)を出津。斎藤高利は武長を補佐する一所衆10名の一人として従軍した[3]。なお武長の一所衆は、他に沓屋勝範、沓屋通種、小野山富縄、吉井蔵人が確認できる[4][5]。18日、大内水軍は厳島に押し寄せ、友田方の守備兵を退却させて同島を占領した[5]。
11月1日、弘中武長率いる[注釈 2]大内水軍は、厳島から出撃して桜尾城後方の友田方拠点・五日市を襲撃し、斎藤高利は放火を行った。しかし友田方の反撃に遭い、高利の中間一人が左足に矢傷を受けている[3]。さらに船着場において野間刑部大輔、能美弾正忠、野村民部丞、そのほか主だった者が二十人余り討死して、大内方は退却した[6]。
桜尾城の戦い
[編集]翌大永4年(1524年)5月12日、大内氏は佐西郡大野城において友田興藤・武田光和の連合軍を破る[7]。この勝利に勢いを得た大内方では、大内義興・義隆父子が大軍を率いて安芸国に出陣。陶興房は大将として岩戸山に陣をおき、さらに弘中武長指揮下の大内水軍が海上を封鎖して桜尾城を完全に包囲した[8]。
斎藤高利も武長指揮下で桜尾城攻めに加わった。7月3日、高利自身が左足の「腨」(ふくらはぎ)に矢傷を負っている[3]。7月下旬から大内方の攻撃が本格化し、7月24日には陶興房の部隊が「桜尾ノ二重」まで攻め込みながら、城の友田方に撃退された。大内方は攻城兵器「車ヤクラ」まで投入したが、城側の守備は堅固だった[9]。高利は8月23日にも、同城で右肩に矢傷を負った[3]。
攻めあぐねた大内方は、吉見頼興を使者として城中に送り、10月10日に友田興藤との講和が成立した[10]。高利とともに弘中武長の一所衆として出陣した沓屋勝範は、後に大永3年8月1日から大永4年9月14日帰国に至るまでの軍忠状を武長に提出している[4]。武長指揮下の水軍が帰国した9月14日には、興藤との和議に目途がついていたと考えられる[11]。
大内氏滅亡後
[編集]大内氏が滅亡した後の弘治3年(1557年)10月9日、高利は毛利隆元から長門国美祢郡で合計22石の知行を与えらえた[12]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 藤井崇『大内義興 西国の「覇者」の誕生』 戎光祥出版 2014年 p.140
- ^ 藤井崇『大内義興 西国の「覇者」の誕生』 戎光祥出版 2014年 p.144
- ^ a b c d 「閥閲録巻160 萩町人」( 山口県文書館 編『萩藩閥閲録 第4巻』 1971年 p.301)
- ^ a b 「閥閲録巻137 沓屋勝八」( 山口県文書館 編『萩藩閥閲録 第3巻』 1970年 p.875)
- ^ a b 福田直記 編著 『棚守房顕覚書 付解説』 宮島町 1975年 p.36
- ^ 福田直記 編著 『棚守房顕覚書 付解説』 宮島町 1975年 p.37
- ^ 福田直記 編著 『棚守房顕覚書 付解説』 宮島町 1975年 p.38
- ^ 『廿日市町史 通史編 上』 廿日市町 1988年 p.386
- ^ 『廿日市町史 通史編 上』 廿日市町 1988年 p.387~388
- ^ 『廿日市町史 通史編 上』 廿日市町 1988年 p.388
- ^ 松岡久人 「中世末広島湾頭をめぐる大名の抗争と海上権」 (松岡久人 『大内氏の研究』 清文堂出版 2011年)P.312
- ^ 「閥閲録巻160 萩町人」( 山口県文書館 編『萩藩閥閲録 第4巻』 1971年 p.300)
参考文献
[編集]- 藤井崇『大内義興 西国の「覇者」の誕生』 戎光祥出版 2014年 ISBN 978-4-86403-111-0
- 松岡久人 「中世末広島湾頭をめぐる大名の抗争と海上権」 (松岡久人 『大内氏の研究』 清文堂出版 2011年 ISBN 978-4-7924-0952-4)
- 『廿日市町史 通史編 上』 廿日市町 1988年