新庄直忠
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時代 | 戦国時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 天文11年(1542年) |
死没 | 元和6年1月25日(1620年2月28日) |
改名 | 直忠→東玉斎 |
別名 | 刑部左衛門 |
墓所 | 滋賀県米原市の總寧寺 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 足利義晴?→ 織田信長→ 豊臣秀吉→秀頼→改易→徳川家康→秀忠 |
氏族 | 新庄氏(秀郷流) |
父母 | 父:新庄直昌、母:久我大納言某の娘 |
兄弟 | 直頼、直忠、直壽、ほか女子2名 |
妻 | 正室:堀秀重の娘 |
子 | 娘(坂井成政正室) |
新庄 直忠(しんじょう なおただ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。近江国新庄城主。近江国朝妻城主新庄直昌の次男、新庄直頼の弟。
略歴
[編集]天文11年(1542年)、近江国坂田郡朝妻城主・新庄直昌の次男として誕生。
天文18年(1549年)、父・直昌が江口の戦いで戦死、近江国新庄城主となった(朝妻城は兄の直頼が相続)。はじめ室町幕府12代将軍・足利義晴に仕えたというが、義晴が天文19年(1550年)に死去しているので、真偽は不明。後に織田信長、次いで豊臣秀吉に仕えた。天正11年(1583年)、近江浅井郡に200石の所領を与えられた。この頃、「東玉入道」と称して剃髪している。
天正19年(1591年)に近江蒲生郡で250石、文禄2年(1593年)に近江坂田郡で300石を加増された。さらに文禄4年(1595年)11月には1万900石余りを加増されて、都合1万4600石を領した。文禄元年(1592年)の文禄の役では朝鮮に渡海している。
秀吉の没後は、京都に病と称して隠棲。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属して所領没収となったが、徳川家康に接近していた為、後に近江坂田郡柏原に知行を得た。
天正19年9月、枯死した近江・唐崎の松を植え替えて景勝の保存に尽力するなど兄・直忠ともに文武に優れ、人倫を弁じた武士として賞賛された[注 1]。