新映画 (企業)
種類 | 株式会社 |
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市場情報 | 消滅 |
略称 | 新映画社 |
設立 | 1950年5月 |
業種 | サービス業 |
事業内容 | 映画の製作 |
代表者 | 篠勝三 |
主要株主 | 東横映画 |
新映画株式会社(しんえいが-)は、かつて存在した日本の映画制作プロダクションである。通称新映画社。
略歴・概要
[編集]1950年(昭和25年)5月、太泉スタヂオ(のちの太泉映画、東映の前身の一社、現在の東映東京撮影所)の撮影所次長兼企画室長であった篠勝三が設立した[1]。前年の1949年(昭和24年)10月1日に京都の東横映画(東映の前身の一社、現在の東映京都撮影所)と太泉スタヂオの作品を配給するため、東急資本が東京映画配給(東映の前身の一社)を設立したことを背景に、東横映画の一角を担うべく、設立された[1]。製作には東横映画撮影所を使用した[1]。
設立第1作は、雪吹周の原作を山本嘉次郎と高柳春雄が脚本に起こし、新東宝の志村敏夫が監督、東宝をレッドパージされ東横映画等に出演していた岸旗江、東横のマキノ光雄の妻・星玲子の姪・星美智子らを起用して製作した『肉体の白書』である[1][2]。同作は、同年7月4日に東京映画配給の配給で公開された[2]。
1951年(昭和26年)4月1日、東横映画、太泉映画、東京映画配給の3社が合併して東映が形成され、新映画社は独自の道を歩み始める。同年、大映と配給提携を結び、日活多摩川撮影所、その後進である大映東京撮影所(現在の角川大映撮影所)を出て、前年に今村貞雄のラジオ映画で1本を撮った伊賀山正徳を監督に『湯の町情話』、次いで『紅涙草』を製作、前者を同年8月17日、後者を11月23日にそれぞれ公開した。伊賀山は翌年には東映東京撮影所に入社した[3]。
1952年(昭和27年)には、劇団民藝と製作提携を結び、宇野重吉、滝沢修ら同劇団陣の出演を得て、稲垣浩の執筆した脚本を島耕二が監督した『ある夜の出来事』、大映と製作でも提携し、同社の監督である安田公義が監督した『佐渡ガ島悲歌』を製作した。
その後、6年間は製作の記録が残っていない。篠勝三はその間、新東宝、東京映画、協同プロダクション、近代映画協会等の作品にプロデューサーとして関わっていた[4]。
1958年(昭和33年)、江戸川乱歩の原作を陶山鉄が脚色し、山本弘之が監督した『蜘蛛男』を大映配給で発表[5]
この会社は二度と姿を見たり聞いたりしたことがないので、おそらく倒産したと思われます。
フィルモグラフィ
[編集]- 『肉体の白書』 : 監督志村敏夫、1950年 - 配給 東京映画配給
- 『紅二挺拳銃』 : 監督小田基義、1950年 - 配給 東京映画配給
- 『軍艦すでに煙なし』 : 監督関川秀雄、1950年 - 配給 東京映画配給
- 『黄金バット 摩天楼の怪人』 : 監督志村敏夫、1950年 - 配給 東京映画配給
- 『湯の町情話』 : 監督伊賀山正徳、1951年 - 配給 大映
- 『紅涙草』 : 監督伊賀山正徳、1951年 - 配給 大映
- 『ある夜の出来事』 : 監督島耕二、1952年 - 共同製作劇団民藝、配給 大映
- 『佐渡ガ島悲歌』 : 監督安田公義、1952年 - 共同製作・配給 大映
- 『蜘蛛男』 : 監督山本弘之、1958年 - 配給 大映