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新納忠武

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
新納忠武
時代 室町時代後期 - 戦国時代
生誕 不明
死没 大永元年11月17日1521年12月15日
別名 四郎(通称)
戒名 鷹山忠新
官位 近江守
氏族 新納氏
父母 父:新納忠明
兄弟 忠武忠時源四郎三郎四郎新納忠祐
北郷数久の娘
忠勝久秋(忠安)島津忠広室、忠郷、時宗
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新納 忠武(にいろ ただたけ)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。新納氏7代当主。大隅国志布志領主。

略歴

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6代当主・新納忠明の子として誕生。

明応3年(1494年)、都城北郷数久と共に梅北(現:都城市梅北町)の島津忠明を攻撃。忠明を敗走させると梅北を手にいれる。この時の攻撃によって多くの神社・仏閣が焼失したと言われている。

忠武は飫肥を本拠とする豊州家島津忠朝と対立していたが、島津宗家にも従おうとはしなかった。永正3年(1506年)、島津氏11代当主・島津忠昌が反乱を起こした大隅高山城肝付兼久を攻撃したが、忠武が兼久に援軍を送ったため全軍撤退する事になる。こうして新納氏は忠武・忠勝の代に周囲の豪族と争いを繰り広げながら、次第に勢力を拡大していった。

系譜 [1]

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  • 側室:宇宿氏の娘
    • 三男:忠郷(~1541) - 天文10年9月3日山東にて戦死。戒名は竹翁道松

出典

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  1. ^ 鹿児島県歴史資料センター黎明館『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 諸氏系譜 1』1989年、395-398,414,422,469頁https://dl.ndl.go.jp/pid/13590131/1/2