新聞学院 (1932年設立)
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新聞学院(しんぶんがくいん)は、1932年に設立され、閉校となった1942年までに、332人が卒業し、およそ200人ほどのジャーナリストを輩出した、夜間1年制の「日本初の本格的記者養成学校」[1]。
概要
[編集]新聞学院は、『国民新聞』などで活躍した山根真治郎が学院長となり、ミズーリ大学のジャーナリズム教育課程を参考に、講師に徳富蘇峰や緒方竹虎らをはじめ、各新聞社の幹部などを迎えて授業を行った[1]。伊藤正徳や杉村楚人冠も講義をした[2]。学生には、大学生や新聞社の社員などが多くいたという[1]。
開校に際して、山根は、三井財閥の支援を得て神田三崎町に新聞学院の校舎を構えたが、学院は後に銀座へ移転した[1]。
1942年8月、山根は学院長を辞任し[3]、その後、新聞学院も閉校となった[4]。
機関誌『学報』は、33冊刊行されたうち29冊が現存しており、2015年に復刻出版された[1][5]。
おもな出身者
[編集]- 原四郎 - 読売新聞副社長。
- 金久保通雄 - 報知新聞常務、読売新聞出版局長。
- 小門勝二 - 毎日新聞記者を経て、随筆家。
- 山根康治郎 - 中日新聞経済部長、山根真治郎の娘婿[1]。
- 古谷糸子 - 東京日日新聞〜毎日新聞記者、古谷綱正の妻[6]
脚注
[編集]- ^ a b c d e f 北島隆一 (2015年5月8日). “大戦前夜 記者たちの学びや 「新聞学院」機関誌、73年ぶり復刻 戦争協力への軌跡克明に” (PDF). 朝日新聞・夕刊 2015年6月16日閲覧。
- ^ 山根芳美 (2011年12月2日). “緑地帯 新聞人二代の絆 6”. 中国新聞 2015年6月18日閲覧。
- ^ “山根真治郎物語”. やまねよしみ. 2015年6月18日閲覧。 - 不二出版『新聞学院学報』パンフレット所載「山根真治郎略年譜」
- ^ 山根芳美 (2011年12月6日). “緑地帯 新聞人二代の絆 8”. 中国新聞 2015年6月18日閲覧。
- ^ “書籍紹介 新聞学院『学報』【復刻版】 全4巻・別冊1 1932年5月~1942年10月”. 不二出版. 2015年6月16日閲覧。
- ^ 岩崎千恵子「「大勢の中の孤独が好き。でも自分が思ったことをしていました」古谷糸子」」『女性記者 新聞に生きた女たち』世界思想社、1994年、54頁。