日劇ミュージックホール
日劇ミュージックホール(にちげきミュージックホール)は、東京都千代田区有楽町の日本劇場の5階にあったミュージックホールである。
1952年に日本劇場(日劇)5階の小劇場に開場し、有楽町再開発に伴って有楽町センタービル(有楽町マリオン)が同地にできるときに興行場所を東京宝塚劇場に移動し、1984年に閉場した。日劇ミュージックホールは、浅草ロック座、浅草フランス座などと並んで、昭和の裸体舞踊表現を代表した施設だった。上演されるレヴューは主にトップレスの女性ダンサーによるものであり、衣服を脱いでいく過程のあるストリップとは異なる。浅茅けいこ、あき竹城らはテレビ東京の山城新伍の番組『独占!男の時間』に出演し、トップレスでのダンスを披露した。
沿革
[編集]劇作家の丸尾長顕が日劇において設立。東宝の小林一三から「女性が見ても上品なエロチズムの探求」という承諾を受けてスタートする。以降、数多くの優秀なダンサーたちやコメディアンを輩出した。
日劇ミュージックホールを支えた黄金時代は、創立時の1952年から1958年頃であり、この頃の代表的なダンサーとしては伊吹まり、メリー松原、春川ますみ[1][2]などがおり、トニー谷、泉和助、関敬六、E・H・エリックたちがコントを担当した。のちの作家深沢七郎が「桃原青二」名でギターを弾いた時期もあった。また、特別な演目として三島由紀夫、寺山修司、新藤兼人、武智鉄二、山口清一郎、高林陽一、勅使河原宏らが脚本を手がけた。ゲストも豪華であり、山口清一郎監督脚本で女優、田中真理が出演したこともある。
その後は、小浜奈々子、大山節子[3]、朱雀さぎり[4]などが劇場に華を咲かせ、舞悦子は『11PM』のカバーガールまでつとめた[5]。また殿岡ハツエは、日活作品など何本かの映画に出演し[6]、歌手としても「プカプカ」を発表した。松永てるほ[7]は、日活ロマンポルノ『赤い花弁が濡れる』に出演するなど、女優としても活躍した[8]また、鵬アリサは『11PM』の「ビーナス誕生」でテレビ初の全裸姿を晒した。生放送で止められなかったという[9]。
解散する頃にはメイン舞台である日劇は取り壊され、代わって東京宝塚劇場を借りて公演を行っていた。日劇ミュージックホールは1984年に閉鎖になり、跡地に有楽町マリオンがオープンした[10][11]。
出演者
[編集]著名ダンサー
[編集]コメディアン
[編集]ゲスト
[編集]女優
[編集]歌手
[編集]ビデオ
[編集]- 日劇ミュージックホール《復刻集》 - VHSビデオ2巻
脚注
[編集]- ^ 今村昌平監督の映画『赤い殺意』など多数に出演した。
- ^ 赤い殺意.
- ^ ガンを患ったが幸運にも快復し、愛知県で店を経営した。
- ^ 1992年にガンのため死去している。
- ^ 映画の國.
- ^ 『かぶりつき人生』、『哀愁のサーキット』などに出演した。
- ^ 日劇ミュージックホール閉鎖後もクラブなどで踊り続けたが、体は満身創痍の状態だったという。
- ^ a b 松永てるほの映画作品.
- ^ 『放送できないテレビの内幕』自由国民社、1968年10月30日、35,36頁。
- ^ “写真・グラフィックス・映像一覧”. 報道写真・ニュース映像の提供購入サービス:KYODO NEWS IMAGELINK(イメージリンク). 2024年4月17日閲覧。 “「ヌード芸術」を看板に、ジプシー・ローズらを生んだ日劇ミュージックホールが1984年3月24日、32年の歴史に幕。1981年2月本拠地日劇の閉鎖後は東京宝塚劇場で公演を続けていたが、レビュー人気後退の流れには勝てなかった”
- ^ “有楽町「日劇」85年の歴史に幕。映画ファンは涙と拍手で別れを惜しんだ”. ハフポスト (2018年2月3日). 2024年4月17日閲覧。 “老朽化に伴い「日劇」は1981年に閉館。(中略)旧「日劇」閉館から3年後の1984年。跡地に「有楽町マリオン」がオープン。”
- ^ 日劇ミュージックホールからストリッパーに転向した。
- ^ 大山節子の映画作品.
参考文献
[編集]- “赤い殺意”. Yahoo!映画. Yahoo! JAPAN. 2023年2月6日閲覧。
- 石崎勝久『裸の女神たち : 日劇ミュージックホール物語』吐夢書房〈シロアリ文庫〉、1982年。
- “大山節子の映画作品”. MOVIE WALKER PRESS. MOVIE WALKER. 2023年2月6日閲覧。
- 木全公彦. “日劇ミュージックホールと映画人”. 映画の國. マーメイドフィルム. 2022年10月13日閲覧。
- “松永てるほの映画作品”. MOVIE WALKER PRESS. MOVIE WALKER. 2023年2月6日閲覧。
- 丸尾長顕『日劇ミュージックホールのすべて』美研出版、1964年。