日東航空つばめ号墜落事故
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事故機と同型のオッター | |
出来事の概要 | |
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日付 | 1963年5月1日 |
概要 | 濃霧の中、航路を誤ったことで墜落 |
現場 | 日本・兵庫県三原郡南淡町諭鶴羽山[1] |
乗客数 | 9 |
乗員数 | 2 |
負傷者数 | 2 |
死者数 | 9 |
生存者数 | 2 |
機種 | デ・ハビランド・カナダ DHC-3オッター |
運用者 | 日東航空 |
機体記号 | JA3115 |
出発地 | 大阪国際空港 |
目的地 | 徳島飛行場 |
日東航空つばめ号墜落事故(にっとうこうくうつばめごうついらくじこ)は、1963年(昭和38年)5月1日に発生した航空事故である[1]。
事故の概要
[編集]大阪空港から徳島へ向かっていた日東航空(日本エアシステムなどを経て現在の日本航空)のDHC-3オッター水陸両用旅客機「つばめ号」(機体記号JA3115)が淡路島の兵庫県三原郡南淡町(現在の南あわじ市)にある諭鶴羽山に墜落したのは、1963年5月1日8時56分ごろであった[2]。つばめ号は8時11分に大阪を離陸したが、濃霧の中を飛行していたため航路を誤り、諭鶴羽山中腹の標高約300m地点に墜落し大破炎上した。事故機は1958年4月に新造機で購入した機体で、事故の1か月ほど前にオーバーホールした時点では何も問題はなかったという。
事故の連絡を受け、所管の三原署は警察車両5台を現場に向かわせると共に、近くの南淡中学校に現地対策本部を立ち上げた。
運航乗務員2名は操縦席左右のハッチから脱出して救助されたが、乗客の9名全員が犠牲となった。乗客は着席してシートベルトを締めたままだった事もあり、火の回りが速く逃げ出す余裕がなかったためとされた[3]。遺体は洲本で荼毘に付されたあと各遺族へ引き渡された。日東航空は5月6日に大阪市北区の東本願寺で合同葬儀を行うと発表したが、一部の遺族はこれに反対した。
なお、機長の業務上過失致死傷、航空法違反について大阪高裁で有罪判決が下されたが、最高裁は上告を棄却した。航空事故に関する裁判としては最高裁では最初のものである[2]。
脚注
[編集]- ^ a b “第043回国会 運輸委員会 第18号”. 国立国会図書館 (1963年5月7日). 2017年12月23日閲覧。
- ^ a b 藤本雅之 (2007). “新居浜の航空路回顧”. 愛媛県総合科学博物館研究報告 12: 17 .
- ^ 朝日新聞・昭和38年5月1日夕刊記事、2日朝刊記事