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日没の歌

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

日没の歌』(にちぼつのうた、Songs of Sunset)は、フレデリック・ディーリアス1906年から1907年にかけて作曲した合唱曲

概要

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この曲は1911年に出版されている。元来は『黄昏と悲しみの歌』(Songs of Twilight and Sadness)というタイトルであった[1]。ディーリアスの妻であるイェルカ・ローゼンは、曲の歌詞をドイツ語に翻訳しており「Sonnenuntergangs-Lieder」という題を付けられている[2]。初演が行われたのは1911年6月16日ロンドンクイーンズ・ホール英語版であった。この時の演奏会は、ディーリアスを大得意としたトーマス・ビーチャムによるオール・ディーリアス・プログラムであり、作曲者自身も出席していた[3]独唱者ユリア・クルプ英語版とThorpe Bates、合唱はエドワード・メイスン(Edward Mason)合唱団、ビーチャム交響楽団の演奏であった。同夜に演奏された楽曲は、他に『パリ:大都会の歌』と『ダンス・ラプソディ』、『アパラチア』であった。

この初演は、ディーリアスとピーター・ウォーロックの最初の出会いの場ともなった。当時16歳のイートン・カレッジの学生であったウォーロックは、この曲の写譜を目にして実演を聴きたくてたまらなくなっていた。彼が演奏会に赴くためには学校の許可を得る必要があった。ディーリアスはウォーロックよりも約33歳も年長であったが、この出会いをきっかけとして2人の間には生涯にわたって続く友情が芽生えることになる[4]

「日没の歌」はドイツエルバーフェルトの合唱協会に献呈されたが[2]、同団の首席指揮者であったハンス・ハイムはドイツにおけるディーリアスの最大の支持者の1人だった[5]。エルバーフェルトの合唱団がこの曲を最初に演奏したのは1914年のことであった[5]。ハイムは1913年の手紙にこう記している。「この曲は広く一般向けというよりは、むしろ同時に生まれつき退廃的であったり鬱気質であるような、音楽的に孤立した少数の人々向けである[1]。」

ディーリアスの死後、イェルカ作の「Vitae summa」へのピアノ伴奏による歌曲が、彼の書類の中から発見された。これが、「日没の歌」の最初の着想だった可能性が考えられる[5]

また、ディーリアスはダウスンの詩「Non sum qualis eram bonae sub Regno Cynarae」に対してもバリトン独唱と管弦楽のための楽曲を構想し、一部を作曲していた。しかし、全体的な構成に合わないという理由で採用は見送られた。その後、曲は完成されないまま忘れられることになる。1929年にこれを発見したエリック・フェンビーは、ディーリアスに独立した曲として完成させることを促し、「シナーラ」という曲にまとめられた[6]

演奏時間

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約33分[7]

楽器編成

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メゾソプラノバリトン混声合唱オーケストラ[2]

楽曲構成

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歌詞はアーネスト・ダウスンの8つの詩から成り立っている。これらは4つの音からなる接続部で連結され、続けて演奏されるという独特の形式となっている。ディーリアスは、この形式が「人の思考に精神の統合をもたらす」と考えていた[1]

  • No. 1. "A song of the setting sun!" (合唱)
  • No. 2. "Cease smiling, Dear!" a little while be sad (メゾソプラノとバリトン)
  • No. 3. "Pale amber sunlight falls across" (合唱)
  • No. 4. "O Mors!" (Exceeding sorrow consumeth my sad heart!) (メゾソプラノ)
  • No. 5. "Exile" (By the sad waters of separation) (バリトン)
  • No. 6. "In Spring" (See how the trees and osiers lithe) (合唱)
  • No. 7. "I was not sorrowful, I could not weep" (バリトン)
  • No. 8. "Vitae summa" (They are not long, the weeping and the laughter) (メゾソプラノ、バリトン、合唱)[8][9]

脚注

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出典

参考文献

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外部リンク

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