日章丸 (タンカー・2代)
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日章丸(タンカー・2代) | |
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時事通信社『時事通信 日刊時事解説板』第2235号(1953)より日章丸(2代目)。右上は新田辰夫船長。 | |
基本情報 | |
船種 | タンカー/フィッシュミール工船 |
クラス | 日章丸型タンカー |
船籍 | 日本 |
所有者 |
出光興産 北洋水産 |
運用者 |
出光興産 北洋水産 |
建造所 | 播磨造船所 |
母港 | 東京港/東京都 |
姉妹船 | なし |
航行区域 | 遠洋 |
信号符字 | JQQV |
IMO番号 | 67881(※船舶番号) |
改名 | 日章丸→廉進丸→鵬洋丸 |
建造期間 | 286日 |
経歴 | |
起工 | 1951年3月12日 |
進水 | 1951年9月16日 |
竣工 | 1951年12月22日[1] |
最後 | 1990年以降消息不明 |
要目 | |
総トン数 | 11,886トン[2] |
載貨重量 | 19,074トン |
垂線間長 | 163 m[3] |
型幅 | 21.40m |
型深さ | 11.80m |
機関方式 | 播磨造船所製 スルザーディーゼル機関10SD72型の1号機 1基[4] |
推進器 | 1軸 |
出力 | 7,000PS[5] |
最大速力 | 14.82ノット |
日章丸(にっしょうまる)は、出光興産船舶部(現・出光タンカー)が所有・運航していた原油タンカーである。1951年(昭和26年)竣工[6]。「日章丸」という名の船舶は、出光興産では1938年竣工の初代から2004年竣工の5代目まで存在するが、本船はそのうち2代目にあたる。
概要
[編集]初代「日章丸」の代船として出光興産が計画し発注した。
製造は、播磨造船所(→石川島播磨重工業→IHI→アイ・エイチ・アイ・アムテック→JMUアムテック)。
当時の出光の企業規模からは想像できない大型タンカーであり、石油需要の増大を予測した経営者の出光佐三による思い切った先行投資として、莫大な借金をしてまで造船したという。
1953年(昭和28年)に石油取引のためにイランに派遣され[7]、日章丸事件として国際社会で知られていく。この事件を扱った小説『海賊とよばれた男』は、2013年に本屋大賞を受賞している[8]。
1959年(昭和34年)、北洋水産へ売却され、三菱日本重工横浜造船所にてフイッシュミール工船へ改造されて廉進丸と改名。1964年(昭和39年)、鵬洋丸と再改名[9]。1990年まで操業[10]。以降の消息は不明である。
脚注
[編集]- ^ 石川島播磨重工業(株)『石川島播磨重工業社史. 沿革・資料編』(1992.04)-渋沢社史データベース
- ^ 播磨造船所進水記念絵葉書写真集(pdf)
- ^ 播磨造船所進水記念絵葉書コレクション
- ^ なつかしい日本の汽船-トピックス ログ
- ^ 石川島播磨重工業(株)『石川島播磨重工業社史. 沿革・資料編』(1992.04)-渋沢社史データベース
- ^ 出光タンカーの歩み 出光タンカー
- ^ メジャー支配に挑戦した「日章丸事件」 出光興産
- ^ 2013年本屋大賞第一位 講談社book
- ^ “日章丸 NISSHO MARU”. jpnships.g.dgdg.jp. 2020年1月31日閲覧。
- ^ 北洋水産功労者賞の記載による。