日笠恒太郎
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日笠 恒太郎(ひかさ つねたろう、1854年5月22日(嘉永7年4月26日[1])- 1895年(明治28年)8月4日[1][2][3])は、明治期の農業経営者、政治家、実業家。衆議院議員。
経歴[編集]
備前国和気郡奥吉原村[1](岡山県[2]和気郡熊山村[3]、赤磐郡熊山町を経て現赤磐市奥吉原)で、大庄屋・日笠太左衛門の長男として生れた[1]。閑谷校で学び[1]漢学を修めた[2][3]。農業を営む[2][3]。
1877年(明治10年)1月、和気郡第5戸長役場戸長に就任[1]。1878年(明治11年)郡役所が設置され郡書記となる[1]。1882年(明治15年)岡山県会議員に選出され[1]、3期12年間在任し[1]、この間、常置委員を2期務めた[1]。
1889年(明治22年)12月、山陽鉄道に入社して書記となり[1]、岡山派出所に在勤し1891年(明治24年)の岡山開通に尽力[1]。また、鉄道用陶器製茶入れの製造に着手した[1]。
1894年(明治27年)3月、第3回衆議院議員総選挙(岡山県第2区、中国進歩党)で当選し[1][4]、衆議院議員に1期在任した[2][3]。結核のため第4回総選挙の投票日前に、議員を辞退する新聞広告を4度掲載して政界を引退した[1]。