日輪寺古墳
日輪寺古墳 | |
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日輪寺古墳(2014年3月) | |
所在地 | 福岡県久留米市京町 |
位置 | 北緯33度19分15.3秒 東経130度29分54.0秒 / 北緯33.320917度 東経130.498333度座標: 北緯33度19分15.3秒 東経130度29分54.0秒 / 北緯33.320917度 東経130.498333度 |
形状 | 規模=全長約50m[1][2] |
出土品 | 銅鏡、装身具、鉄刀、鉄鏃、土師器、須恵器、石枕[3][2] |
築造時期 | 5世紀後半~6世紀初頭[2]または5世紀末[1] |
史跡 | 1922年(大正11年)3月8日国指定[2][4] |
特記事項 | 装飾古墳 |
日輪寺古墳(にちりんじこふん[1][2])は、福岡県久留米市京町の日輪寺境内にある前方後円墳である。国の史跡。玄室に線刻のある石障を有する、装飾古墳で知られている[4][2]。
位置
[編集]筑後川左岸の沖積層[3]、標高12mの独立丘陵上に位置する[1]。
構造
[編集]墳丘
[編集]元々全長50mほどの前方後円墳である[2]が、削平により現状では直径約20mの円墳に見える。
石室
[編集]後円部に西方を向く横穴式石室[3]は、発見された1912年(明治45年)3月の段階[3]でほとんど破壊されていて、現在まで残っているのは玄室の一部のみである[2]。玄室は正方形に近く、長さ3.5m、幅2.3m、高さ1.7mを測る[5]。玄室の石材は安山岩で、平たい石材を平積みしている[2]。玄室には、阿蘇山の溶結凝灰岩製で高さ約50cmの石障があり[2]、同心円文や直弧文、鍵手文による線刻が施されている[1]。線刻には赤色顔料が一部残っており、6世紀初頭の文様とされる[6]。
1912年の発見後、1914年(大正3年)9月に京都帝国大学(現・京都大学)の梅原末治が調査を行った後、1916年(大正5年)3月に古墳の上に祠が建てられた際に玄室も改変された[3]。戦後、玄室に覆屋が設けられ、その横に説明版が設置された。
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墳丘全景
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石室覆屋
出土遺物
[編集]1912年の発見の際に、玄室から砂岩製の石枕1点や勾玉2点、管玉8点、耳環2点、鉄刀と鉄鏃、土師器や須恵器の破片が出土したほか、1916年に玄室から漢式鏡が出土し、さらに墳丘から円筒埴輪の破片が出土した[3]。
漢式鏡は四獣鏡で、文様が不鮮明である[3]ことから、仿製鏡とされている[2]。
これらの出土遺物は、石枕を東京国立博物館が所蔵しているほかは、日輪寺が所蔵している[1][3]。
交通アクセス
[編集]なお石室内の撮影は禁止されている。
参考文献
[編集]- ^ a b c d e f g 熊本県立装飾古墳館『福岡県の装飾古墳』全国の装飾古墳3 1997年 P.23
- ^ a b c d e f g h i j k l m 「113日輪寺古墳」 久留米市市民文化部文化財保護課『郷土の文化財(第7版)』 2013年 P.121
- ^ a b c d e f g h 梅原末治「第四節 筑後國久留米市日輪寺古墳」 濱田耕作・梅原末治『肥後に於ける装飾ある古墳及横穴』京都帝國大學文科大學考古學研究報告第一冊 1917年(1976年再版、臨川書店) P.29-35、図版6・15・16
- ^ a b 日輪寺古墳 - 文化遺産オンライン(文化庁)
- ^ 大塚初重・小林三郎・熊野正也編『日本古墳大辞典』東京堂出版、1989年9月、444頁
- ^ 石山勲「福岡県の装飾古墳 先人は新しい文物や情報に接した時、どのように対応したのだろうか」 『福岡県の装飾古墳』 P.103