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日野宣子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

日野 宣子(ひの せんし/のぶこ、1328年嘉暦3年〉?[注 1] - 1382年7月25日永徳2年6月14日[2]〉)は、南北朝時代女房後光厳天皇典侍

南北朝期の宮中(北朝)で大きな影響力を保持し、日野業子足利義満や、広橋仲子後光厳天皇[3]三条厳子後円融天皇[4]らの縁談を取り計らった。

二位局二品尼一品禅尼岡松一品などと称された。

概略

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日野資名芝禅尼の娘として誕生[5][3]

後光厳天皇の践祚時に典侍となり[6]、後光厳の即位礼では褰帳の典侍を務めた[7]。やがて従三位に叙せられる[6]。宣子と後光厳は芝禅尼のもとで育てられた縁があり、後光厳との配偶関係は無かったが、宣子は後光厳の後宮で力を持った[3]。以後、宣子は女官の監督者として北朝後宮に君臨することとなる[1]

その後西園寺実俊の妾となり[1]、実俊の北山殿に入った[8]。宣子の影響で実俊は後光厳に気に入られ、宣子は後光厳の六位蔵人である物加波懐国とも関係を持ったが[9]、懐国は宣子の威を借りて高慢に振る舞ったという[9]

後光厳の譲位後は「二位局」と呼ばれ、後光厳の崩御に際して出家[9]法名無相定円後円融天皇の後宮でも力を保ち、一門の女性を後見して後宮に送り込んだ[9]。永徳元年(1381年)3月16日に従一位に叙せられる[10]永徳2年(1382年)前後には、後円融天皇が義満に対して行った幹仁親王後小松天皇)への譲位の相談にて使者を務めている[11]永徳2年(1382年6月14日薨去[2]

宣子は、宮中北朝)における女官の監督役として長年後宮に君臨し[注 2]、宮中で大きな影響力を有した[1]。また、様々な人物の縁談を取り計り、将軍足利義満と一族の日野業子の縁談を取り持った縁で、義満との関係も強かった。義満は宣子に対して実母同然の敬愛を払い、たびたび花の御所内にある宣子の岡松殿(宣子の没後に大聖寺となる)を訪れた[12]。宣子の死に際しては、義満自ら葬儀を営み、年忌ごとの手厚い供養も忘れずに執り行ったという[12]。義満の治天の君同然の振る舞いに関して小川剛生は、宣子を通じて義満は歴代の治天の君の行状を知ったと推測している[12]

脚注

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注釈

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  1. ^ 小川剛生は、日野宣子は後光厳天皇より10歳ほど年長と推定している[1]
  2. ^ 当時の宮中では、女官と廷臣との密通事件がたびたび発生していたが、女官たちを監督し、そうした事件が起こった際には穏便に済ませる老女的な存在が必要であった[1]

出典

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  1. ^ a b c d e 小川 2012, p. 43.
  2. ^ a b 東京大学史料編纂所『大日本史料』6編、p.48。(「大日本史料総合データベース、永徳1年3月16日(13810030160) 1条」)
  3. ^ a b c 山田徹『南北朝内乱と京都』2021、p.217。
  4. ^ 小川 2012, p. 89.
  5. ^ 藤原公定 撰『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集 第4巻』1903-1904、p.29。
  6. ^ a b 小川 2020, p. 99.
  7. ^ 『天祚礼祀職掌録』(『群書類従 第貳輯』より)
  8. ^ 山田徹『南北朝内乱と京都』2021、p.218。
  9. ^ a b c d 小川 2012, p. 44.
  10. ^ 大日本史料総合データベース、永徳1年3月16日(13810030160) 1条」東京大学史料編纂所
  11. ^ 大日本史料総合データベース、永徳1年12月24日(13810120240) 2条」・「大日本史料総合データベース、永徳2年閏1月8日(13820015080) 1条」東京大学史料編纂所
  12. ^ a b c 小川 2012, p. 45.

参考文献

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  • 小川剛生足利義満 : 公武に君臨した室町将軍』中央公論新社、2012年。ISBN 9784121021793https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I023863004-00 
  • 小川剛生『二条良基』吉川弘文館、2020年。ISBN 9784642052955https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I030178812-00 

関連項目

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  • 大聖寺 (京都市) - 義満が岡松殿を寺院に改めたもの。宣子が開山とされている。