日野家宣
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時代 | 平安時代後期 - 鎌倉時代前期 |
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生誕 | 文治元年(1185年) |
死没 | 貞応元年10月27日(1222年12月1日) |
別名 | 藤原家宣 |
官位 | 従三位、参議 |
主君 | 後鳥羽天皇→土御門天皇→順徳天皇→仲恭天皇→後堀河天皇 |
氏族 | 藤原北家真夏流日野家 |
父母 | 父:日野資実、母:八条院女房播磨局 |
兄弟 | 家宣、家長、家光、光国、光恵、光厳、兼性、忠承 |
子 | 兼宣、兼俊、兼嗣、兼資 |
日野 家宣(ひの いえのぶ)は、平安時代後期から鎌倉時代前期にかけての公卿。藤原北家真夏流日野家、権中納言・日野資実の長男。官位は従三位・参議。
経歴
[編集]早くから大学に入り、建久9年(1198年)学問料を下給され、正治3年(1201年)には文章得業生に補任された。建仁2年(1202年)但馬少掾に初任。
建仁3年(1203年)六位蔵人に補任の後ほどなく従五位下・右衛門尉に叙任される。摂政・近衛家実の家司を務め、元久元年(1204年)には従五位上・兵部権大輔に叙任され、建永2年(1207年)武蔵権介に任ず。承元4年(1210年)には正五位下に進んだ。
承元5年(1211年)五位蔵人に補任され、右少弁に転じる。同年左少弁に転じた後、建暦3年(1213年)正五位上に叙される。権右中弁を経て、建保3年(1215年)従四位下。建保7年(1217年)には正四位下・左中弁に叙任され、承久2年(1220年)左大弁に転じる。承久3年(1221年)に従三位に叙され公卿に列し、長門権守を兼任。勧学院別当を務め、同年中に参議に任ぜられるが、翌貞応元年(1222年)10月27日出家し、同日薨去。享年38。
官歴
[編集]※以下、『公卿補任』に記載に従う。
- 建久9年(1198年)6月14日:穀倉院学問料を賜う。
- 正治3年(1201年)正月30日:文章得業生に補す。
- 建仁2年(1202年)正月:但馬少掾に任ず。
- 建仁3年(1203年)
- 正月9日:献策す(抜任勝帝王佳献)。正月10日:六位蔵人に補す。正月13日:右衛門尉に任ず。祭使宣旨。3月10日:従五位下に叙爵。
- 元久元年(1204年)3月5日:兵部権大輔に任ず。12月25日:従五位上に叙す(父卿造内裏行事賞譲)。
- 元久3年(1206年)2月26日:内裏昇殿を聴す。
- 建永2年(1207年)正月13日:武蔵権介に任ず。
- 承元4年(1210年)正月6日:正五位下に叙す(策労)。
- 承元5年(1211年)
- 正月18日:五位蔵人に補す。禁色を聴す。9月8日:右少弁に任ず。蔵人を止む。10月13日:左少弁に転ず。
- 建暦3年(1213年)正月16日:正五位上に叙す(策労)。
- 建保2年12月1日(1215年1月2日):権右中弁に転ず。
- 建保3年(1215年)正月5日:従四位下に叙す。
- 建保6年(1218年)正月13日:右中弁に転ず。12月13日(1219年1月1日):右宮城使に任ず。
- 建保7年(1219年)正月5日:従四位上に叙す。正月22日:左中弁に転ず。10月5日:正四位下に叙す(稲荷祇園行幸行事賞)。
- 承久2年(1220年)正月22日:左大弁に転ず。
- 承久3年(1221年)正月5日:従三位に叙す。正月13日:長門権守を兼ぬ。月日:勧学院別当に補す。8月29日:参議に任ず(大弁如元)。
- 貞応元年(1222年)10月27日:出家、尋いで薨ず。