日野資施
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時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 明和4年(1767年) |
死没 | 文政元年4月17日(1818年5月21日) |
別名 | 通称:多吉郎、玄蕃 |
官位 | 従五位下、侍従、伊予守 |
幕府 | 江戸幕府 高家旗本 |
主君 | 徳川家斉 |
氏族 | 高家肝煎畠山家→高家日野家 |
父母 | 父:畠山義紀、養父:日野資直 |
兄弟 | 資施、畠山義周、山本常誠ら 計5男6女 |
妻 |
正室:日野資直娘 継室:神保喜内姉 |
子 |
資盈、女子4人 養子:資邦 |
日野 資施(ひの すけもち)は、江戸時代中期から後期にかけての高家旗本。高家日野家6代当主。
略歴
[編集]明和4年(1767年)、高家旗本畠山義紀の次男として誕生した。1530石を知行していた高家旗本・日野資直の養子となる。
天明7年(1787年)12月23日、11代将軍・徳川家斉に御目見する。寛政4年(1792年)8月3日、家督を相続した。享和2年(1802年)12月20日、高家に就任し、従五位下、侍従、伊予守に叙任する。文化4年(1807年)3月28日、高家を辞任する。文政元年(1818年)4月17日、死去。享年52。
逸話
[編集]根岸鎮衛の著書『耳袋』には資施の体験談として、重病で臥していた家来の住居の前で火の玉(人魂)を見付けたところ、ほどなくその家来が死去したという話が収録されている。
出典
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