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旧茂木家住宅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
旧茂木家住宅

旧茂木家住宅
所在地 群馬県富岡市宮崎329番地
位置 北緯36度14分51.5秒 東経138度50分45.5秒 / 北緯36.247639度 東経138.845972度 / 36.247639; 138.845972座標: 北緯36度14分51.5秒 東経138度50分45.5秒 / 北緯36.247639度 東経138.845972度 / 36.247639; 138.845972
旧所在地 群馬県富岡市神農原甲871
形式・構造 木造、切妻、板葺
延床面積 114.79平方メートル
建築年 大永7年(1527年
文化財 国の重要文化財
所在施設・区域 宮崎公園
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旧茂木家住宅(きゅうもてきけじゅうたく)は、群馬県富岡市にある古民家大永7年(1527年)築と伝える史料が存在し、国内では一、二を争う古さの板葺民家建築として、国の重要文化財に指定されている。当初は富岡市神農原に所在したが、現在は富岡市の所有となり同市宮崎の宮崎公園内に移築、公開されている。

概要

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建築年代について

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大永7年(1527年)築と伝える史料が存在する。

  1. 文化12年(1815年)の茂木庄右衛門による文書「用書写」は、納戸大根太に「大永七丁亥年建」という墨書があったと記録する。
  2. 文政11年(1828年)の改修の際の背面桁下端墨書「…此大家昔大永七丁亥年十二月建…」
  3. 移築保存のための解体により、「へや」大曳に「大□年 宝永五年迄百八拾年 茂木政右衛門相改」との墨書があることが確認された。(□部分は赤外線写真によっても判読できなかったが、宝永5年(1708年)から180年遡れば大永7年となる)

以上の史料は後世のもので大永7年建立の決定的証拠とはならないが、棟まで達する太い柱、通し貫を用いない、断面の小さな横架材などの技法の特徴から、大永7年の建築とみる説が有力となっている[1]

沿革

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移築保存直前の規模は桁行6間、梁間4間だったが、当初は桁行10間半、梁間6間はあったものと考えられる[2]

材の墨書等から、宝永5年、明和5年、文政11年、明治41年、大正3年頃、昭和43年頃に改修を行っていることが判明している。

1970年(昭和45年6月17日)、国の重要文化財に指定。昭和50~51年度事業として宮崎公園内に移築、保存修理を実施。

茂木家について

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茂木家は、大山城(富岡市神農原字向山)城主(初代:野宮淡路守信勝)の後裔と伝わる。茂木氏の実質的な祖にあたる茂木政右衛門義信(野宮与十郎義信)(寛永5年没)は小幡信実の甥の小幡信詮の子で、母方の伯父にあたる茂木盛稠の養子となったとされる。

江戸時代には名主をつとめ、神原村ではずばぬけた土地所有者であった。

構造

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上述のように当初は大規模な建築であったものの、度重なる改修でその規模を縮小してきた。昭和51年の移築修理では、明治41年に縮小された土間を拡張して復原しているものの、建築当初の規模・間取りに復原されている訳ではない[1][3]

形式・規模[4]

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  • 形式 切妻造、板葺、南面及び西面庇付、杉皮葺
  • 桁行 16.2メートル
  • 梁間 8.7メートル
  • 軒高 3.820メートル
  • 棟高 5.950メートル
  • 面積 114.79平方メートル

周辺

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脚注

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参考文献

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  • 村田, 敬一『群馬の古建築ー寺社建築・民家・近代化遺産・その他ー』みやま文庫、2002年7月10日、105-106頁。 
  • 群馬県文化財研究会 編『上州の重要民家をたずねる(西毛編)』あさを社、2008年11月11日、148-153頁。ISBN 978-4-87024-480-1 
  • 『国指定重要文化財旧茂木家住宅の解説』富岡市教育委員会〈第4刷〉、2012年3月。 

外部リンク

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