早川兼彜
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(早川五郎兵衛から転送)
伝記の記載を年譜形式のみとすることは推奨されていません。 |
時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 文化11年10月26日(1814年12月7日) |
死没 | 明治11年(1878年)11月3日 |
改名 | 亀太郎(初名) →兼彜 |
別名 |
九郎右衛門→五郎兵衛(通称) →如水(隠居名) |
戒名 | 早川如水 |
墓所 | 鹿児島県鹿児島市冷水町の興国墓地 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 島津斉彬、島津忠義 |
藩 | 薩摩藩士 |
氏族 | 早川氏 |
父母 | 父:兼典、母:婦美 |
兄弟 | 鶴次郎、雛、兼彜、兼諧 |
妻 |
正室:登喜 側室:里 |
子 |
八千、兼知(養子)、貞、古登、仲、 多嘉(養女)[注釈 1] 以下、側室の子:辰彦、キタ、幾彦、 兼美 |
早川 兼彜(はやかわ かねのり)(通称早川五郎兵衛)[1] [2]は、江戸時代後期の薩摩藩士。島津斉彬の下で江戸御留守居役を務め。早川兼知(早川五郎)[3]、早川辰彦[4][注釈 2]の父にあたる。
生涯
[編集]※月日は旧暦
- 文化11年(1814年)10月26日、早川兼典(環)の二男として薩摩藩芝西向御屋鋪にて生まれる。
- 文政2年(1819年)9月24日、祖父・兼備(安積)が大隅国始羅郡帖佐郷地頭を拝命。
- 文政3年(1820年)8月15日、父、祖父、曾祖父「酔好(早川兼親)」と共に、江戸から国許へ。
- 文政3年(1820年)10月2日、鹿児島堀之内馬場拝領屋鋪[注釈 3]に着く。
- 九郎右衛門 家格代々新番。
- 天保11年(1840年)10月10日、九郎右衛門 御使番。
- 父「鯉翁」を伴い、江戸屋鋪へ移る。
- 天保15年(1844年)3月27日、五郎兵衛 家格代々小番。
- 父「鯉翁」を伴い、鹿児島高見馬場拝領地へ移る。
- 文久3年(1863年)7月2日、五郎兵衛 薩英戦争に従軍。
- 隠居し、家督を早川兼知へ譲る。隠居名として『如水』と名乗る。
- 明治11年(1878年)11月3日、鹿児島にて死去。享年65[注釈 4]。
人物
[編集]奉職歴
[編集]※月日は旧暦
- 文政6年(1823年)5月15日、亀太郎 御小姓。
- 文政7年(1824年)9月15日、亀太郎 斉彬公御附御小姓。
- 文政11年(1828年)11月14日、亀太郎 斉彬公奥御小姓。
- 天保3年(1832年)11月5日、九郎右衛門 斉彬公御小納戸見習。
- 天保4年(1833年)4月9日、九郎右衛門 御小納戸。
- 九郎右衛門 江戸御留守居見習。
- 九郎右衛門 御目附。
- 天保11年(1840年)10月10日、九郎右衛門 御鉄砲奉行。
- 天保15年(1844年)3月27日、五郎兵衛 江戸御留守居。
- 五郎兵衛 御側御用人格。
- 五郎兵衛 御趣法掛。
- 五郎兵衛 御側御用人。
- 五郎兵衛 御用人。
- 文久3年(1863年)5月26日、五郎兵衛 阿久根一組大砲物主。
出典
[編集]- ^ 在琉英仏人ノ動静報告 申五月六日 早川五郎兵衛 将曹様
- ^ 巳正月九日 早川五郎兵衛 主水様(赤松則甫)
- ^ http://www.city.kagoshima.lg.jp/var/rev0/0047/3666/2012510154932.pdf#search='%E6%97%A9%E5%B7%9D%E5%85%BC%E7%9F%A5' P77/P202 「南洲神社」。
- ^ 『西南の役戦歿者名簿』南洲神社編 P7