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明徳館 (奥殿藩)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

明徳館(めいとくかん)は、三河国奥殿藩藩校

大給松平家10代目当主[1]にして奥殿藩7代目藩主[2]である松平乗利(大給乗利)は、その藩政において文武を奨励していたが[1]弘化3年3月(1846年3月または4月)藩士子弟の教育を目的として開いた藩校が明徳館である[3]。乗利は明徳館とともに演武場も設けている[1]。明徳館の教授には中根五右衞門を、演武場の師範役には成瀬文庫をそれぞれ当てた[1]

明徳館は安政3年(1856年または1857年)、学問所と改称された[4]。文久3年(1863年)に藩庁を信濃国佐久郡に移転するまで存続した。

脚註

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  1. ^ a b c d 『大給龜崖公傳』 p.21。
  2. ^ 『藩史大事典 第4巻 中部編II 東海』 p.287。
  3. ^ 『藩史大事典 第4巻 中部編II 東海』 pp.289-290。
  4. ^ 『藩史大事典 第4巻 中部編II 東海』 p.290。

参考文献

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  • 榎元半重『大給龜崖公傳』平田春行、1912年。 
  • 木村礎、藤野保、村上直(共編) 編『藩史大事典 第4巻 中部編II 東海』雄山閣、1989年。ISBN 4-639-00792-2