コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

明楽茂正

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
明楽茂正
時代 江戸時代後期
生誕 不明
死没 嘉永6年6月13日1853年7月18日
別名 重之丞[1]、八五郎、大隅守
幕府 江戸幕府 旗本
主君 徳川家斉家慶
氏族 明楽氏
父母 明楽茂村
川村修富次女唯
富、せき、わくり、りん、亀吉
テンプレートを表示

明楽 茂正(あけら もせい[2])は、江戸時代後期の旗本。別名・重之丞。御庭番明楽家分家の3代目。父は勘定奉行を務めた明楽茂村で、同僚の御庭番・川村修就は義理の兄弟にあたる。

略歴

[編集]

両番格御庭番[3]として遠国御用[4]を務める。一度目は同じく両番格御庭番の村垣専次郎と共に文政元年(1818年)正月に上方筋へ、同年5月に浦賀表へ出向く。文政9年(1826年)の6月には小十人格御庭番[3]川村庄五郎とともに上方筋へ派遣され、三度目の遠国御用を務めたという記録が残されている[5]

文政10年(1827年)12月27日、西丸膳奉行に就任[6]天保8年(1837年)4月2日に本丸膳奉行に、翌9年(1838年)11月25日に広敷用人となる[6]。天保10年(1840年)12月18日、広敷用人在職中に諸大夫に叙任し、大隅守を名乗る[7][8]。天保12年(1841年)4月に明楽家(800石)の家督を継ぐ[7]。同年5月20日に西丸広敷用人を務め、翌13年(1842年)8月24日に禁裏附に就任[6]。嘉永2年(1849年)正月20日、京都東町奉行となり[6][9]、嘉永3年(1850年)8月24日に小普請奉行[6]、翌4年(1851年)12月20日に普請奉行に就任する[6]。嘉永6年(1853年)6月13日に死去[6]

妻子

[編集]

御庭番・川村修富(川村修就の父)の日記によると、文化4年(1807年)2月19日、修富の次女・唯(当時17歳)との縁談が整う。同年4月21日、唯が輿入れしてくる[1]

文化6年(1809年)6月3日、妻・唯が長女を出産。修富の名にちなんで富と名付ける[10]

文化14年(1817年)7月29日、次女・せきが誕生[11]

文政2年(1819年)11月20日、三女・わくり誕生[12]

文政6年(1823年)正月18日、四女・りんを出産[13]

文政12年(1825年)8月28日、長男・亀吉が生まれる[14]

脚注

[編集]
  1. ^ a b 小松重男『幕末遠国奉行の日記 御庭番川村修就の生涯』中公新書、80頁。
  2. ^ 名前の読み仮名は『寛政譜以降旗本家百科事典』第1巻、49頁より。
  3. ^ a b 御庭番家筋の者が、御目見以上の役職や布衣以上の役職に就任した場合、その嫡子が就く役職。
  4. ^ 変装し、身分を隠して諸国の探索を行う任務。
  5. ^ 深井雅海『江戸城御庭番』中公新書、70、80、207頁。
  6. ^ a b c d e f g 小川恭一編著『寛政譜以降旗本家百科事典』第1巻 東洋書林、49頁。
  7. ^ a b 深井雅海『江戸城御庭番』中公新書、207頁。
  8. ^ 小松重男『幕末遠国奉行の日記 御庭番川村修就の生涯』中公新書、110頁。
  9. ^ 「京都町奉行一覧」『国史大辞典』4巻 吉川弘文館、355頁。
  10. ^ 小松重男『幕末遠国奉行の日記 御庭番川村修就の生涯』中公新書、81頁。
  11. ^ 小松重男『幕末遠国奉行の日記 御庭番川村修就の生涯』中公新書、85頁。
  12. ^ 小松重男『幕末遠国奉行の日記 御庭番川村修就の生涯』中公新書、87頁。
  13. ^ 小松重男『幕末遠国奉行の日記 御庭番川村修就の生涯』中公新書、88頁。
  14. ^ 小松重男『幕末遠国奉行の日記 御庭番川村修就の生涯』中公新書、91頁。

参考文献

[編集]