明楽茂正
時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 嘉永6年6月13日(1853年7月18日) |
別名 | 重之丞[1]、八五郎、大隅守 |
幕府 | 江戸幕府 旗本 |
主君 | 徳川家斉、家慶 |
氏族 | 明楽氏 |
父母 | 明楽茂村 |
妻 | 川村修富次女唯 |
子 | 富、せき、わくり、りん、亀吉 |
明楽 茂正(あけら もせい[2])は、江戸時代後期の旗本。別名・重之丞。御庭番明楽家分家の3代目。父は勘定奉行を務めた明楽茂村で、同僚の御庭番・川村修就は義理の兄弟にあたる。
略歴
[編集]両番格御庭番[3]として遠国御用[4]を務める。一度目は同じく両番格御庭番の村垣専次郎と共に文政元年(1818年)正月に上方筋へ、同年5月に浦賀表へ出向く。文政9年(1826年)の6月には小十人格御庭番[3]の川村庄五郎とともに上方筋へ派遣され、三度目の遠国御用を務めたという記録が残されている[5]。
文政10年(1827年)12月27日、西丸膳奉行に就任[6]。天保8年(1837年)4月2日に本丸膳奉行に、翌9年(1838年)11月25日に広敷用人となる[6]。天保10年(1840年)12月18日、広敷用人在職中に諸大夫に叙任し、大隅守を名乗る[7][8]。天保12年(1841年)4月に明楽家(800石)の家督を継ぐ[7]。同年5月20日に西丸広敷用人を務め、翌13年(1842年)8月24日に禁裏附に就任[6]。嘉永2年(1849年)正月20日、京都東町奉行となり[6][9]、嘉永3年(1850年)8月24日に小普請奉行[6]、翌4年(1851年)12月20日に普請奉行に就任する[6]。嘉永6年(1853年)6月13日に死去[6]。
妻子
[編集]御庭番・川村修富(川村修就の父)の日記によると、文化4年(1807年)2月19日、修富の次女・唯(当時17歳)との縁談が整う。同年4月21日、唯が輿入れしてくる[1]。
文化6年(1809年)6月3日、妻・唯が長女を出産。修富の名にちなんで富と名付ける[10]。
文化14年(1817年)7月29日、次女・せきが誕生[11]。
文政2年(1819年)11月20日、三女・わくり誕生[12]。
文政6年(1823年)正月18日、四女・りんを出産[13]。
文政12年(1825年)8月28日、長男・亀吉が生まれる[14]。
脚注
[編集]- ^ a b 小松重男『幕末遠国奉行の日記 御庭番川村修就の生涯』中公新書、80頁。
- ^ 名前の読み仮名は『寛政譜以降旗本家百科事典』第1巻、49頁より。
- ^ a b 御庭番家筋の者が、御目見以上の役職や布衣以上の役職に就任した場合、その嫡子が就く役職。
- ^ 変装し、身分を隠して諸国の探索を行う任務。
- ^ 深井雅海『江戸城御庭番』中公新書、70、80、207頁。
- ^ a b c d e f g 小川恭一編著『寛政譜以降旗本家百科事典』第1巻 東洋書林、49頁。
- ^ a b 深井雅海『江戸城御庭番』中公新書、207頁。
- ^ 小松重男『幕末遠国奉行の日記 御庭番川村修就の生涯』中公新書、110頁。
- ^ 「京都町奉行一覧」『国史大辞典』4巻 吉川弘文館、355頁。
- ^ 小松重男『幕末遠国奉行の日記 御庭番川村修就の生涯』中公新書、81頁。
- ^ 小松重男『幕末遠国奉行の日記 御庭番川村修就の生涯』中公新書、85頁。
- ^ 小松重男『幕末遠国奉行の日記 御庭番川村修就の生涯』中公新書、87頁。
- ^ 小松重男『幕末遠国奉行の日記 御庭番川村修就の生涯』中公新書、88頁。
- ^ 小松重男『幕末遠国奉行の日記 御庭番川村修就の生涯』中公新書、91頁。
参考文献
[編集]- 小川恭一編著『寛政譜以降旗本家百科事典』第1巻 東洋書林 1997年11月7日発行 ISBN 4-88721-303-4
- 小松重男『幕末遠国奉行の日記 御庭番川村修就の生涯』中公新書 ISBN 4-12-100917-7
- 清水昇『江戸の隠密・御庭番』 河出書房新社、2009年9月 ISBN 978-4-309-22516-6
- 秦新二『文政十一年のスパイ合戦 検証・謎のシーボルト事件』 双葉文庫 ISBN 978-4-575-65872-9
- 深井雅海『江戸城御庭番』 中公新書、1992年4月 ISBN 4-12-101073-6
- 『国史大辞典』4巻 吉川弘文館、1984年2月 ISBN 4-642-00504-8