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春秋穀梁伝

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春秋穀梁伝』(しゅんじゅうこくりょうでん、旧字春秋穀󠄀梁傳拼音: Chūnqiū Gǔliángzhuàn)は、『春秋公羊伝』『春秋左氏伝』と並ぶ春秋三伝の一つ。正確には経書ではないが、準経書扱いされる書物。十三経の一つであるが、五経には入らない。経学の重要書物。

成立時期

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伝承に依ると、『穀梁伝』は『公羊伝』と同じく孔子の弟子子夏から穀梁子(名は赤とも云われるが複数あり、定まっていない)に伝わったとされているが、その伝承は『公羊伝』以上に無理があり、少なくとも前漢宣帝期には現在の形に纏められていることが解っているが、それ以前の経緯は明らかとなっていない。

『公羊伝』と同じく、『穀梁伝』にも幾人もの経師が存在し、何等かの伝承が存在したことは事実であるとされている。しかし『穀梁伝』は明らかに『公羊伝』の影響を受けて成立したと思われる点が存在するため、現行本『穀梁伝』の姿になるのは、少なくとも『公羊伝』成立の後であると言われている。また、『公羊伝』が斉の学者を中心に栄えたのに対し、『穀梁伝』は魯の国を中心に栄えたと言われている。

学脈

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学問の授受

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『穀梁伝』の授受が明白となるのは、前漢の宣帝前後からである。これは宣帝が『穀梁伝』に好意的であることから始まったものである。これ以前、『穀梁伝』は前漢の始めにいたとされる江公以来、細々と継承されるのみであった。しかし宣帝はその『穀梁伝』に対する執着から、時の伝承者蔡千秋に命じて、郎官十人に『穀梁伝』を伝授させ、『穀梁伝』の盛行を図った。これと前後して劉向などの著名な学者も『穀梁伝』を修めた。こうした後、宣帝は公羊学と穀梁学との異同と優劣を定めるべく、石渠閣(図書館のこと)にて学者に議論させた。そこでは公羊学と穀梁学の優劣が多くの学者によって戦わされたが、宣帝の趣向も影響して、穀梁学が勝利を収めた。しかしこれが『穀梁伝』の最盛期で、以後は書物こそ失われなかったものの、衰微の一途をたどり、南北朝の時代には書物のみ存在し、伝の思想を伝える師は絶えていなかったと言われている。

注釈書と批判書

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『穀梁伝』の注釈者は『公羊伝』『左氏伝』ほど多くはなく、『穀梁伝』全てに渉って解釈した注釈書となると、その数は限られている。

注釈書の中で最も基本となるのは、晋の范寧らの『春秋穀梁伝集解』である。これは劉向など漢代以来の注釈を参照し、范寧がその一族とともに造り上げた注釈書であるばかりでなく、現存する『穀梁伝』の注釈書では最も古いものである。『左氏伝』に対する杜預の注釈書である『春秋経伝集解』、『公羊伝』に対する何休の注釈書である『春秋経伝解詁』と並び、三伝の注釈書の中では最高権威に属する。ただし杜預や何休が、自己の奉ずる『左氏伝』『公羊伝』を春秋経に対する唯一の解釈書と見做し、他の二伝の排斥を前提としていたことに比べると、范寧の注釈態度は軟化している。即ち范寧は、春秋の代表的注釈書である『穀梁伝』に、感心する程の注釈書のないことを憂えて自らその作業を行ったというに止まり、『穀梁伝』に対する信奉から注釈を行ったのではない。その為に注釈書の中では『穀梁伝』の誤りを暗々裡に認めるところが散見される。

范寧の『穀梁伝集解』が出て以後、穀梁伝研究は左程進展しないばかりか、辛うじてテキストの保存が可能なだけで、その解釈を伝えるものは絶えていなくなっていた。それでも唐王朝による中国統一と、それにともなく南北経学の統一によって『五経正義』が成立すると、その選定者の一人楊士勛は、改めて范寧等の『集解』に疏(注釈を注釈したもの)を作り、ここに穀梁伝の古注は完成した。十三経注疏の中に入れられる『穀梁伝注疏』は、范寧と楊士勛の注釈を指すことになった。

中唐以後の経学は、『五経正義』を基礎とした漢代以来の注釈研究ではなく、直接経文の研究を志すものとなった。特に春秋学では夥しい研究が生み出された。しかしそこでは春秋学の経文研究が行われ、経文の注釈書たる穀梁伝そのものの研究は却って低調であった。その中にあって、中唐の啖助趙匡陸淳らの『春秋集伝辨疑』、北宋の劉敞による『春秋権衡』、南宋の葉夢得の『春秋讞』(穀梁伝讞)、元朝の程端学の『春秋三伝辨疑』は、何れも卓越した穀梁伝研究(批判)を展開した。また孫覚の『春秋経解』は穀梁伝を貴んだものであり、その他の宋人の注釈にも穀梁伝に影響を受けたものが多い。しかしこれは穀梁伝の研究を意味するものではなく、穀梁伝の諸学説を自己の春秋研究に取り入れたという意味に止まるものであった。

清朝に至り、漢学(漢代の経学)の復興が叫ばれ、従前の宋代的経学が否定された。そのため、従来低調であった漢代経学の見直しが計られ、『正義』以前の注釈に注目が集まった。その中で『穀梁伝』も幾ばくかの注目を受けることにはなったが、清朝初期から中頃に隆盛した『左氏伝』、中頃から末期に公羊学派の基本典籍として重視された『公羊伝』に比べ、その注目の度合いは相当低いものであった。清朝の学者として必ずしも著名とは言い難い鍾文蒸の『春秋穀梁経伝補注』が、清代『穀梁伝』研究の代表と見做されている。なお清末の廖平が著した『穀梁春秋経伝古義疏』も有名であり、広い意味での清人十三経注疏の一つに数えられている。

なお日本に於いては、林羅山の訓点本が存在する他、岩本憲司による『穀梁伝』と范寧注との翻訳書『春秋穀梁伝范甯集解』(汲古書院,1988年)が出版された。

思想と特徴

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『穀梁伝』の思想的内容は、『公羊伝』と同じく尊王説・内魯説などに特徴がある。それらの主張は『公羊伝』より整理されたものとして提出されており、特に尊王説は強力に主張されている。このような整理された学説は、『穀梁伝』が『公羊伝』の成立を前提として、それに対抗する為に生れたからであるとも言われている。他にも『穀梁伝』には法家的思想の混入を指摘する学説も有力であるが、これには反論もある。

その他の特徴として、日月の例(日月時例、時月日例)を挙げることができる。日月の例とは、経文に日や月や時(四時のことで、春夏秋冬のこと)を書くか書かないかによって、聖人の褒貶や経文の意味に変化が現れるというものである。早くは『公羊伝』に存在し、『左氏伝』にも一例のみ日月の例が存在するが、『穀梁伝』に至っては最も甚だしく、日月の例を経解の武器としている。そのため早くは北宋の劉敞も云うように、日月の例の矛盾点が『穀梁伝』の専門家以外からは指摘されていた。この特徴は清朝の穀梁伝研究にも継承され、日月の例を中心として学説が纏められる場合が多い。 なお春秋三伝の盛衰として、『公羊伝』が漢代に、『左氏伝』が南北朝より唐代に盛んになったのに対し、『穀梁伝』は宋代の春秋学に影響を与えたと言われる場合がある。しかしこれは三伝の中で宋代に最も影響を与えたものは、相対的に『穀梁伝』が大きかったという意味であり、『穀梁伝』そのものが尊敬を集めたわけではない。

『穀梁伝』の盛衰

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『穀梁伝』は歴代王朝に最も振るわなかった伝とされている。理由は種々挙げられる。一つには法家思想の影響が考えられ、その為に儒学者から忌避されたというものがある。しかし『穀梁伝』に法家思想が存在するという学説にも異論があり、また歴代王朝に於いて『穀梁伝』が法家であると見做されたわけではない。もう一つの理由としては、『穀梁伝』には『左氏伝』ほどの文藻や史述が存在せず、また類似の形態を持つ『公羊伝』ほどの強力な思想的発言がないことが挙げられている。『穀梁伝』は儒学の正統思想としては最も穏当な解釈とみなされ、思想的特徴が見つけにくいことが盛行しなかった原因ではないかというものである。

日本語訳

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外部リンク

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