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昭和神聖会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

昭和神聖会は、1934年(昭和9年)7月22日に東京・九段の軍人会館で発足した、大本系の救国運動を目的とする団体。統管は、出口王仁三郎、副統管は、内田良平と出口宇知麿。1935年(昭和10年)第二次大本事件により王仁三郎が投獄されてからは活動は停滞、休止した。

経緯

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出口王仁三郎1924年(大正13年)2月、第一次大本事件による責付出獄中に日本を脱出して、モンゴル地方へ行き盧占魁(ろせんかい)という馬賊の頭領とともに活動する[1]が、同年6月パインタラにて張作霖の策謀により落命寸前の危機となる(パインタラの法難)も、王仁三郎とともに活動した植芝盛平を始め、日本人6人は無事難を逃れ、翌月帰国する。

この間、黒龍会の内田良平と親交。内田はのち昭和神聖会の副統管になる。

1934年昭和9年)7月22日、軍人会館(現:九段会館)において、社会運動の団体「昭和神聖会」を結成[2]。宣言文は以下のごとくであった[3]

大日本皇国の天業未だ途にありて内外稀有の不安に会す、寔に憂慮に堪へざるなり、惟ふに是れ天地の大道、皇道の大精神を忘却せるに由る。茲に於て 天祖の神勅、列聖の詔勅を奉戴し、大義名分を明かに、百般の事象を究明して、世道人心を正し、至誠奉公神洲臣民たる天賦の使命を遂行し以て聖慮に応へ奉らんことを誓ふ。右宣言す。 — 昭和神聖会、出口京太郎著「巨人出口王仁三郎」講談社 1967

賛同者は800万人を超えるなど、幅広く様々な活動を展開するが、当局は出口の意図を、国家転覆とみなし、1935年(昭和10年)第二次大本事件により再び投獄。なお第二審判決では重大な意味を持つ治安維持法違反について無罪、1942年(昭和17年)に保釈出所。不敬罪については大審院まで持ち込まれたが、1945年(昭和20年)10月17日には、敗戦による大赦令で無効になった。

所在

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昭和神聖会の総本部は東京市四谷区愛住町七六にあった。

事務所は交詢社ビル。


思想

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皇国思想に基づいて、「祭政一致の確立を期す」ものであった(綱領一条)。

本会は神聖なる神国日本の大道、皇道に則り万世一系の 聖天子の天業を翼賛し奉り、肇国の精神を遵奉し、皇国の大使命と皇国民天賦の使命達成を期す。 — 昭和神聖会、出口京太郎著「巨人出口王仁三郎」講談社 1967

綱領

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一、皇道の本義に基き祭政一致の確立を期す

一、天祖の神勅並に聖詔を奉戴し、神国日本の大使命遂行を期す

一、万邦無比の国体を闡明し、皇道経済、皇道外交の確立を期す

一、皇道を国教と信奉し、国民教育、指導精神の確立を期す

一、国防の充実と農工商の隆昌を図り、国本の基礎確立を期す

一、神聖皇道を宣布発揚し、人類愛善の実践を期す

脚注

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  1. ^ 『霊界物語』特別篇、『王仁蒙古入記』
  2. ^ #部会団体軍部利用pp.6-7
  3. ^ 会則は次の通り。第一条 本会を昭和神聖会と称す。第二条 本会は神聖なる皇道に則り皇業を翼賛し神洲日本の使命達成を図るを以て目的とす。 第三条 本会は総本部を東京に、地方本部を枢要の地に、支部を各地に設く 。四条 本会に統管一名、副統管二名を置く 統管は本会を総統し、副統管は統管を補佐す 。第五条 本会に顧問及び賛助若干名を置く 。第六条 総本部に部員若干名を置き総本部の事務を掌理せしむ 。第七条 地方本部に地方本部長各一名、地方本部次長各二名及び部員若干名を置き地方本部の事務を掌理せしむ 地方本部に顧問を置くことを得 。第八条 支部に支部長各一名、支部次長各二名及び係員若干名を置き支部の事務を処理せしむ  支部に相談役を置くことを得 。第九条 本会の目的に賛同し之が実行を為す者を以て会員とす、但し会員は年齢十五歳以上の男女にして 本会の承認を得ることを要す 第十条 会員にして本会の精神に背戻すると認めたるときは之を除名す 。第十一条 本会の経費は入会金並に特志者の寄附に依る 。第十二条 本会役職員は統管之を推薦、任免す 。第十三条 細則は内規を以て別に之を定む (昭和九年十月二十三日改定)

参考文献

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出口京太郎著 「巨人出口王仁三郎」講談社 1967

関連項目

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