曹洞宗内紛

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曹洞宗内紛(そうとうしゅうないふん)は、明治時代曹洞宗で起きた内紛事件のことである。

概要[編集]

曹洞宗内では、開祖道元が開山である永平寺と、太祖瑩山紹瑾が開いた能登の總持寺の住職が、交互に宗派の管長を勤める両本山交替管長制度をとっていた。数百年来両山の確執は絶えなかったが、明治維新の頃には、積極的な總持寺派が永平寺派の10倍以上の末寺を保有するまでに勢力を伸長していた。

明治元年(1868年)6月、新政府が両山に対して沙汰書を発給し、ようやく調停が成立した。新政府から下ったのは、弱体化していた永平寺派にとって有利な裁定であった。ゆえに東京都港区高樹町(現在の西麻布)にある、大本山永平寺別院長谷寺井上馨の先祖代々の霊碑を創建したのは、井上に対する恩に報いたものと考えられている。

また逸話として、内務大臣時代の井上が両山の僧侶を招いて料理を振る舞った際、「観樹将軍回顧録」によれば、井上は食事時に事前の調査に基づいて、精進を厳守している僧には精進の膳、破戒の僧には肉類の膳を出した。僧たちは膳に手をつけず、黙って顔を見合わせるばかりであったという。このことは、海鮮配膳として広く知られたという。