曽根松太郎
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曽根 松太郎(そね まつたろう、明治2年10月20日[1](1869年11月23日) - 昭和20年(1945年)[2])は、日本の教育者。文化書房主。号は金僊。
経歴
[編集]伊予国宇和郡吉田(現在の愛媛県宇和島市)出身[1]。小学校訓導、松山中学校教諭、郡視学を歴任。1901年(明治34年)、金港堂に入り、雑誌「教育界」編集主任となった[1]。1911年(明治44年)に独立して明治教育社を設立するが、やがて廃業した[1]。1919年(大正8年)より南北社で編集長となるが、1922年(大正11年)に文化書房を興して再び独立した[1]。
その他、東洋美術協会理事、中央教育品協会理事、愛媛県同交会長、帝国教育会評議員・出版部長[1]、同理事を務めた[3]。
著作
[編集]- 『当世人物評』(金港堂、1902年)
- 『少年訓』(金港堂、1909年)
脚注
[編集]- ^ a b c d e f 大衆人事録 1930.
- ^ 愛媛県生涯学習センター. “データベース「えひめの記憶」- 愛媛県史 人物” (日本語). 2019年7月28日閲覧。
- ^ 大衆人事録 1943.
参考文献
[編集]- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第3版』帝国秘密探偵社、1930年。
- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第14版』帝国秘密探偵社、1943年。