曽根虎長
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時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 天正元年(1573年)? |
別名 | 官途:中務大輔・掃部助・兵部大輔[1] |
官位 | 三河守 |
主君 | 甲斐武田氏 |
氏族 | 曽根氏 |
父母 | 父:曽根縄長[1] |
子 | 昌世[1] |
曽根 虎長(そね とらなが)は、戦国時代の武将。甲斐国武田氏の家臣。中務大輔、三河守。子に勝長(昌世)。
甲斐武田氏(武田信縄)の家臣・曽根縄長の長男として生まれる。祖父の昌長(武田信重の曾孫とされる)を父とする説もある。享禄4年(1531年)河原辺合戦にて父が戦死したため、家督を継いで武田信虎に仕え、慣例に倣ってその偏諱を与えられ「虎長」と称した。信虎追放後は武田信玄(武田晴信)に仕えた。早い時期から家督を子の勝長(のちの昌世)に譲って隠居している。
永禄4年の西上野侵攻においては跡部勝資や原昌胤、土屋昌続らと西上野国衆の取次を務めており、虎長は安中氏との取次を担当している。天文10年(1541年)および天文17年(1548年)の中郡上曽弥村山王権現社の棟札に虎長の名がある[1]。史料などから天正元年(1573年)以降までは活動が確認できるため、この前後に死去したものと思われる。