服部保次
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 大永6年(1526年) |
死没 | 天正15年4月18日[1](1587年5月25日) |
改名 | 宗次、保次 |
別名 | 要介、小平太、中 |
戒名 | 長閑、湖雲浄鑑 |
主君 | 足利義輝、織田信長、徳川家康 |
氏族 | 服部氏 |
子 | 保正、保信 |
生涯
[編集]伊賀国阿拝郡の土豪出身。最初は将軍足利義輝に仕え、たびたび武功を顕した。のち織田信長に転仕し、永禄3年(1560年)桶狭間の戦いでは、今川義元の本陣へ先駆けるという戦功をあげたという[2]。永禄8年(1565年)から徳川家康に仕え、主に敵地との境界の警衛を命じられた。天正5年(1577年)これまでの戦功を賞して遠江と三河に120貫文を与えられる。天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いで嫡子保正が戦功を上げたため、家康から孫六兼元の刀を拝領した。その家督は保正が継ぎ、代々「服部中」を称した。
脚注
[編集]出典
[編集]- 「寛政重修諸家譜」巻第1172