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服部正辰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
服部 正辰
円妙寺にある正辰の墓所。
時代 江戸時代
生誕 1609年慶長14年)
死没 1663年寛文3年)
別名 源右衛門
墓所 円妙寺
桑名藩
氏族 服部氏
父母 父親:服部正就
母親:松尾君
兄弟 兄:服部正幸
久松吉次の娘
長男:服部正容
次男:服部保元
三男:服部正純
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服部 正辰 (はっとり まさとき、1609年慶長14年) - 1663年寛文3年)) は、江戸時代武士桑名藩・服部家初代当主。父は服部正就。母は松平定勝の長女・松尾君。正室は久松吉次の娘。通称は源右衛門。

生涯

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父正就は幕府旗本で、1605年慶長10年)12月罪を得て改易となり、1615年元和元年)戦功を立てて赦免を受けるべく、大坂夏の陣に出陣し、大坂天王寺で戦死する。幼い正辰は、叔父の松平定行の元で養育された。成長すると同じく叔父の松平定綱に仕え、2000石の合力を受け、後に3000石に加増された。

1663年寛文3年)日光門主・守澄法親王に願書を提出し、旗本としての復帰を訴え、老中に面談するために江戸に滞在中に病死。享年55。墓所は桑名市円妙寺(境外墓地)。

家督は長男正容が相続。次男保元は、親族の松平定長に招かれて家臣となり、同じく、三男正純は、松平定房に招かれ家臣となった。松山騒動の責任を取らされ、流罪となり、後に殺害された伊予松山藩家老の奥平久兵衛貞国は、次男保元の子。

関連項目

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