望月明
望月 明(もちづき あきら、1934年7月18日 - 2016年8月25日)は、日本の俳人。神奈川県横浜市南区高砂町生まれ。在家得度、法名は、「徹心明道」(みょうどう)。
来歴
[編集]経歴
[編集]神奈川県横浜市南区高砂町に生まれる。10歳(小学校4年生)の頃、同区伏見町に転居。横浜市立共進中学を卒業後、1950年(昭和25年)、横浜市立横浜商業高等学校普通科に入学、同期には、写真家の南信一郎等がいる。[1]
1959年(昭和34年)、結婚を機に、横浜市南区庚台(かのえだい)に転居、ついの住居とする。隣家に、演出家でアニメータ―の板野一郎が小中学生時代住んでいた。生粋の横浜子(はまっこ)である。
俳人として
[編集]1948年(昭和23年)、中学の国語の時間で初めて俳句を習い、「横浜の焼跡かなし夏の草」の一句稿が国語教師に激賞され、『少年新聞』の俳句欄では第一席を占めた。30年余の空白期間を経て、1983年(昭和58年)、扇谷正造を通じて、久保田万太郎の俳句を知り、俳句の本を読みふけり、自己流の俳句を習作していた。1985年(昭和60年)「春燈」に入会、投句と同時に長倉閑山の添削指導を受ける。1993年(平成5年)、「春野」前身の「あしがり」に同人として参加。「春野叢書」第一集として句文集『六計』上木。翌年、俳人協会会員となり、1996年(平成8年)、第一回「春野賞」を受けた。その後、「春野」同人会事務局長、「春野賞」選考委員を歴任。2015年2月から山珠俳句会に投句と挿絵の提供を始める。
広告業界に30数年勤務
[編集]1957年(昭和32年)大学卒業と同時に放送・広告業界に入った。民間放送編成局勤務を経て、(株)I&Sの前身・(株)第一広告社に入社。同社チーフプロデューサー、第一クリエーティブ室長、プランニング室長、プランニングセンター局長、経営企画室長を歴任。 ラジオCMの企画制作、1961年(昭和36年)からはテレビCMの企画制作に従事、1965年(昭和40年)頃からは、万博イベントの企画・演出も手がけた。テレビCMはサントリー、旭ペンタックス、マツダ、花王などのもので、国内・国外のCMフェステバルで受賞多数。1988年(昭和53年)夏、定年で、子会社・ビジネスインデックス社の常務取締役へ転出。1991(平成3年)からは日本広告業協会広報委員、さらにMCEI(世界のマーケティングの集い)の日本流通研究会委員長、日本POP広告協会専任講師、情報ビジネス専門学校(川口学園)の専任講師を歴任する。
仏教研究と3300札所巡礼など
[編集]美術としての仏像研究や民話の中の仏教研究が昂じて、仏教そのものの世界に入り、全国3,300札所の観音への巡礼を発願し、1993年(平成5年)、これを成就している。又、中国、インド、ヨーロッパなど各地から約100体の仏像を収集している。
在家得度者・法名「徹心明道」
[編集]87代目の法名を継ぐ
[編集]1975年(昭和50年)頃から曹洞宗の興禅寺や臨済宗の道場で座禅修業をはじめた。1984年(昭和59年)頃からヨーロッパ各地において座禅を指導した。又、各地からの仏教留学生を座禅指導もした。1987年(昭和62年)、曹洞宗・總持寺管長の梅田信隆禅師から「徹心明道」(みょうどう)という法名を頂いて在家得度し、87代目の法名を継ぐことになった。得度にちなんで詠んだ句は、
骨太に帰命と書けり旱梅雨 (昭和62年夏)
昂りし受戒のあとや夏の風邪 (昭和62年夏)
沙弥としてわが名呼ぶばるる夏花摘 (州和63年夏)
鳥雲に帰命の遅速ありにけり (昭和65年春)[2]
「一人一寺心の寺」運動に参加
[編集]1987年(昭和62年)頃から在家仏教徒の集り「一人一寺心の寺」(いちにんいちじ)運動の会(創設者 井上球二)の活動に参加し、「普聞山示現寺」を建立。事務局長・会長補佐を歴任した。
著書
[編集]- 望月明 『六計』(春野叢書)1993年9月25日刊
- 望月明 『七計』(本阿弥書店)1997年10月30日刊 ※第1回春野賞受賞
- 望月明 『八計』(春野叢書)1995年3月25日刊
- 望月明 『九計』(春野叢書)1997年3月1日刊
- 望月明 『十計』2002年6月1日刊
- 望月明 編・著 『広告ビジネスハンドブック』1991年10月20日刊(宣伝会議新社発行 ISBN 4-915376-91-5 C2063 P2600E)
- 望月明 著「阪神大震災・ボランテイアの現場から-モノからココロの救援へ-」『大法輪』1997年刊
- 望月明 著「観音の道」連載①~⑨
参考文献
[編集]- 井上球二『一人一寺心の寺』春秋社、1988年11月20日刊 ISBN 4-393-13617-9
- 南信一郎編者『或る日或る所 ポートフォリオ 1976-2006 』2006年10月31日発行