コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

朝光寺原古墳群

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
出土品
横浜市歴史博物館展示。
朝光寺原 古墳群の位置(神奈川県内)
朝光寺原 古墳群
朝光寺原
古墳群
位置図。

朝光寺原古墳群(ちょうこうじばらこふんぐん/ちょうこうじっぱらこふんぐん)は、かつて神奈川県横浜市青葉区市ケ尾町の、市が尾駅東側にあった3基からなる古墳群朝光寺原遺跡内にあったが、現在はすべて消滅している。

概要

[編集]
地図
About OpenStreetMaps
Maps: terms of use
300 m
遺跡案内板
遺跡案内板
朝光寺原3号墳
朝光寺原3号墳
朝光寺原2号墳
朝光寺原2号墳
朝光寺原1号墳
朝光寺原1号墳
朝光寺原古墳群(位置復元)

朝光寺原古墳群を含む朝光寺原遺跡は、谷本川(鶴見川)北側の、市が尾駅東口の田園都市線東名高速道路に挟まれた東西約150m、南北約300mの領域に広がる。

1960年代、高度経済成長期の勢いの中で横浜市内は市街地が急拡大した。1965年(昭和40年)には「横浜市六大事業」の一つ港北ニュータウン計画が発表された[1]。また1966年(昭和41年)には田園都市線が開通した。これにより当時の港北区緑区域(現在は青葉区都筑区を含む)に広がっていた山野に開発の波が押し寄せ、丘を削り谷を埋め、平らに整地して住宅地化する大規模開発が始まった。朝光寺原遺跡が位置する緑区(現在は青葉区)市ケ尾町は、港北ニュータウンの地域ではないが、1966年(昭和41年)の田園都市線開通の影響で沿線の宅地整備が始まり、畑地や雑木林が開発造成に併呑されていった[2]

迫りくる開発から遺跡を守るため、考古学者の甘粕健や岡本勇らを中心とした遺跡調査会(横浜市北部埋蔵文化財調査委員会の調査団)が組織され、1967年(昭和42年)8月1日から12月10日に朝光寺原遺跡第1次発掘調査が行われ、古墳群も発掘された。

古墳群は3基の円墳からなり、埋葬主体部から武具甲冑眉庇付冑三角板鋲留短甲※1号墳)武器(鉄剣・鉄鉾・鉄刀・鉄鏃)、馬具、類(臼玉・勾玉)などが出土した。遺物の年代観から1号墳(5世紀後半)→2号墳(6世紀前後)→3号墳(6世紀前半)の順に築造されたと分かった[3]

1号墳から出土した甲冑セット(眉庇付冑三角板鋲留短甲)は、神奈川県内では今のところ唯一の発見であり大変貴重である。

現在

[編集]

遺跡は調査後直ちに破壊され、消滅してしまった。近くの「市ケ尾町公園」に朝光寺原遺跡の案内パネルがあるが、公園自体は朝光寺原遺跡のエリアではない。1号墳出土の甲冑など、古墳出土遺物は、横浜市指定文化財として横浜市歴史博物館に展示されている[4][5]

脚注

[編集]
  1. ^ 田中 2019, p. 269.
  2. ^ 横浜市歴史博物館 1998, pp. 25–31.
  3. ^ 横浜市緑区 1985, p. 75.
  4. ^ 朝光寺原古墳群出土遺物一括”. 横浜市青葉区 (2018年10月23日). 2020年3月22日閲覧。
  5. ^ 企画展 古墳からのメッセージⅠ 横浜の古墳と副葬品”. 横浜市歴史博物館 (2001年3月). 2020年3月22日閲覧。

参考文献

[編集]

引用文献

[編集]
  • 横浜市緑区「朝光寺原古墳群」『横浜緑区史』横浜市緑区、1985年7月15日、75頁。 NCID BN09184065 
  • 田中, 義昭「第4章 破壊される遺跡、変貌する地域」『開発と考古学:市ヶ尾横穴群・三殿台遺跡・稲荷前古墳群の時代』新泉社、2019年7月15日、285-404頁。ISBN 9784787719096NCID BB28625447 

関連文献

[編集]
  • 横浜市域北部埋蔵文化財調査委員会調査団『昭和42年度朝光寺原遺跡発掘調査略報(第1次A地区調査)』横浜市域北部埋蔵文化財調査委員会、1968-0-31、1-11頁。 NCID BA90745679 

外部リンク

[編集]
画像外部リンク
横浜市行政地図情報提供システム「文化財ハマSite」

座標: 北緯35度32分52.4秒 東経139度32分29.7秒 / 北緯35.547889度 東経139.541583度 / 35.547889; 139.541583