朝日受永
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朝日 受永(あさひ じゅえい、天文18年(1549年) - 慶長8年(1603年)7月28日)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・旗本。諱は「近路(ちかみち)」。受永は「寿永」とも。
略歴
[編集]大和源氏の源頼親流で、父は朝日新三郎。武田氏の先方衆下条氏の旧臣で、天正10年(1582年)の武田氏滅亡後に徳川家康、秀忠に拝謁し、豊臣政権下での関東移封により、武蔵国児玉郡(現・埼玉県)内に500石を賜る。慶長4年(1599年)、代官頭大久保長安の意を受け、信濃国伊那郡(現・長野県)の郡内の社寺に一斉に安堵状を発給し、同6年(1601年)同郡代官となる。
家康は江戸城、駿府城の普請用材確保のため、信州伊那谷に蔵入地を設定し、長安により地方支配と材木宰領を委任されたため、本年貢を榑木で上納する榑木成り村を創成した。同8年(1603年)に没すると、榑木奉行は千村良重に引き継がれた。
享年55。法名は「安済」。嫡男の近次は大阪の陣に参戦し、旗本として明治維新まで続いた。また武田氏の陪臣時代、足軽の古田右衛門に朝日姓を与え朝日善右衛門と名乗らせ、『鸚鵡籠中記』の作者朝日重章はその子孫にあたる。
出典
[編集]- 「寛政重修諸家譜 巻第323」
- 「徳川幕府全代官人名辞典」東京堂出版 2015年