木下友三郎
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人物情報 | |
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生誕 |
1864年9月8日 日本和歌山県 |
死没 |
1944年11月22日 (80歳没) 日本東京都 |
出身校 | 司法省法学校、東京帝国大学 |
子供 | 木下孝則、木下義謙(共に画家) |
学問 | |
研究分野 | 法学 |
研究機関 | 明治法律学校(明治大学) |
木下 友三郎(きのした ともさぶろう、1864年9月8日(元治元年8月8日[1]) - 1944年(昭和19年)11月22日[2])は、日本の司法官、教育者。
経歴
[編集]1864年(元治元年)、木下誉一郎の三男として[3]紀伊国日高郡御坊町で生まれた。財部村好浄寺住職湯川知城の後凋学舎で漢学を修めた[4]。1880年(明治13年)9月、司法省法学校に入学。同期に横田秀雄(のちの大審院長)や水町袈裟六(のちの日銀副総裁)がいた。司法省法学校の廃校後は東京法学校を経て帝国大学法科大学(仏法科)に編入。1888年(明治21年)7月に卒業して司法部に入り、東京控訴院判事、行政裁判所部長などを歴任した。1913年(大正2年)6月休職となる[5]。
判事職のかたわら多くの私立法律学校(日本法律学校[6][7]、専修学校[8]、中でも、慶應義塾大学部[9]、法政大学[10]など)に出講して後進の育成につとめた。最も関係の深かったのは明治法律学校(のちの明治大学)で、1912年(明治45年)には岸本辰雄校長の死後、その後任の校長となり、1920年(大正9年)には大学令による初代明治大学学長になった[11]。さらに1934年(昭和9年)3月-9月、1938年(昭和13年)8月-1939年(昭和14年)6月の2度にわたって明治大学総長となった。1944年(昭和19年)11月22日、胃癌のため渋谷区千駄ヶ谷の自宅で死去[2]。
その人柄は「典型的な明治文明人」[12](春日井薫)と評された。
栄典
[編集]家族・親族
[編集]著作
[編集]著書
[編集]- 『財産取得編講義』1892年
- 『行政新論講義』和仏法律学校出版部、1897年
- 『行政法講義』明治法律学校講法会、1901年
- 『行政法講義各論』明治大学出版部、1904年
寄稿
[編集]- 『臺灣人並內地人に對する希望』臺灣青年 第1巻 第1号、1920年
脚注
[編集]- ^ 明治大学が保管する履歴書では8月4日生まれ(『明治大学小史―人物編』 38頁)。
- ^ a b 『朝日新聞』 1944年11月23日
- ^ a b c 『千駄ケ谷町誌』 314頁
- ^ 和歌山県日高郡 『和歌山県日高郡誌』 1923年、1256頁
- ^ 『大正人名辞典』 1554頁
- ^ 日本大学 大学史ニュース第15号 2018年9月30日発行
- ^ 1890年に配布された『日本法律学校設立主意及規則』(國學院大學梧陰文庫所蔵)に名前が見えるほか、少なくとも1892年度まで同校の教壇に立っていたことが確認できる(日本大学百年史編纂委員会 『日本大学百年史』 第一巻、1997年、340-341頁)。
- ^ 加藤七五郎 『特別認可専修学校同窓名簿』 専修学校、1892年、10頁
- ^ 1891年度から1903年度まで法律科と理財科で主に民法を講じた(慶應義塾150年史資料集編纂委員会編 『慶應義塾150年史資料集 第2巻』 慶應義塾、2016年、409頁)。
- ^ 法政大学 『私立法政大学一覧』 1907年、43頁
- ^ 1920年には、木下友三郎の学長解任を求める植原・笹川事件が起きている。
- ^ 『明治大学小史―人物編』 39頁
- ^ 『官報』第4157号「叙任及辞令」1940年11月13日。
参考文献
[編集]- 東洋新報社 『大正人名辞典』 1914年
- 中原慎太郎 『千駄ケ谷町誌』 千駄ケ谷町誌刊行会、1930年
- 明治大学史資料センター 『明治大学小史―人物編』 学文社、2011年 ISBN 978-4-7620-2217-3