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木下友三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
木下 友三郎
人物情報
生誕 (1864-09-08) 1864年9月8日
日本の旗 日本和歌山県
死没 1944年11月22日(1944-11-22)(80歳没)
日本の旗 日本東京都
出身校 司法省法学校東京帝国大学
子供 木下孝則木下義謙(共に画家)
学問
研究分野 法学
研究機関 明治法律学校(明治大学)
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木下 友三郎(きのした ともさぶろう、1864年9月8日元治元年8月8日[1]) - 1944年昭和19年)11月22日[2])は、日本の司法官教育者

経歴

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明治大学体育会幹部との記念撮影。左から谷沢梅雄野球部監督、中山博道剣道部師範、木下友三郎、三船久蔵柔道部師範、双葉山相撲部師範、北島忠治ラグビー部監督(1938年)

1864年(元治元年)、木下誉一郎の三男として[3]紀伊国日高郡御坊町で生まれた。財部村好浄寺住職湯川知城の後凋学舎で漢学を修めた[4]1880年(明治13年)9月、司法省法学校に入学。同期に横田秀雄(のちの大審院長)や水町袈裟六(のちの日銀副総裁)がいた。司法省法学校の廃校後は東京法学校を経て帝国大学法科大学(仏法科)に編入。1888年(明治21年)7月に卒業して司法部に入り、東京控訴院判事、行政裁判所部長などを歴任した。1913年(大正2年)6月休職となる[5]

判事職のかたわら多くの私立法律学校日本法律学校[6][7]専修学校[8]、中でも、慶應義塾大学部[9]法政大学[10]など)に出講して後進の育成につとめた。最も関係の深かったのは明治法律学校(のちの明治大学)で、1912年(明治45年)には岸本辰雄校長の死後、その後任の校長となり、1920年(大正9年)には大学令による初代明治大学学長になった[11]。さらに1934年(昭和9年)3月-9月、1938年(昭和13年)8月-1939年(昭和14年)6月の2度にわたって明治大学総長となった。1944年(昭和19年)11月22日、胃癌のため渋谷区千駄ヶ谷の自宅で死去[2]

その人柄は「典型的な明治文明人」[12]春日井薫)と評された。

栄典

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家族・親族

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著作

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著書

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  • 『財産取得編講義』1892年
  • 『行政新論講義』和仏法律学校出版部、1897年
  • 『行政法講義』明治法律学校講法会、1901年
  • 『行政法講義各論』明治大学出版部、1904年

寄稿

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  • 『臺灣人並內地人に對する希望』臺灣青年 第1巻 第1号、1920年

脚注

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  1. ^ 明治大学が保管する履歴書では8月4日生まれ(『明治大学小史―人物編』 38頁)。
  2. ^ a b 『朝日新聞』 1944年11月23日
  3. ^ a b c 『千駄ケ谷町誌』 314頁
  4. ^ 和歌山県日高郡 『和歌山県日高郡誌』 1923年、1256頁
  5. ^ 『大正人名辞典』 1554頁
  6. ^ 日本大学 大学史ニュース第15号 2018年9月30日発行
  7. ^ 1890年に配布された『日本法律学校設立主意及規則』(國學院大學梧陰文庫所蔵)に名前が見えるほか、少なくとも1892年度まで同校の教壇に立っていたことが確認できる(日本大学百年史編纂委員会 『日本大学百年史』 第一巻、1997年、340-341頁)。
  8. ^ 加藤七五郎 『特別認可専修学校同窓名簿』 専修学校、1892年、10頁
  9. ^ 1891年度から1903年度まで法律科と理財科で主に民法を講じた(慶應義塾150年史資料集編纂委員会編 『慶應義塾150年史資料集 第2巻』 慶應義塾、2016年、409頁)。
  10. ^ 法政大学 『私立法政大学一覧』 1907年、43頁
  11. ^ 1920年には、木下友三郎の学長解任を求める植原・笹川事件が起きている。
  12. ^ 『明治大学小史―人物編』 39頁
  13. ^ 『官報』第4157号「叙任及辞令」1940年11月13日。

参考文献

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外部リンク

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