木原桑宅
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木原 桑宅(きはら そうたく、1816年3月28日(文化13年2月30日)- 1881年(明治14年)8月23日)は、江戸時代末期から明治時代初期の儒者。広島藩士。名は籍之。字(あざな)は君茅。通称は慎斎、慎一郎。別号に撚白老人。
来歴
[編集]1816年(文化13年)、医師の子として安芸国広島(現:広島県広島市)に生まれる。広島藩学問所(現:修道中学校・高等学校)にて坂井虎山などに学ぶ。1862年(文久2年)、漢学に熟達していることが評価され、民間から抜擢されて学問所教授、儒医組となる[1][2]。長州藩の吉田松陰と親しく、松陰に書経を教えたり、松陰の著作の序文を依頼されるなどした[3]。第二次長州征伐では「治本策」を提出、朝廷尊重に基づく幕政改革を説いた。1881年(明治14年)8月23日死去[4]。
次男は裁判官の木原章六。
関連項目
[編集]脚注
[編集]- ^ 広島ぶらり散歩「桑宅木原翁之碑」 2018年7月15日閲覧。
- ^ 広島市 野上光子氏所蔵資料 仮目録 広島県立文書館 2018年7月15日閲覧。
- ^ 『與木原慎斎書:吉田松陰全集』(岩波書店)
- ^ 木原桑宅とは - コトバンク