木口重彦
きぐち しげひこ 木口 重彦 | |
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生誕 |
木口 九一(きぐち きゅういち) 1883年8月22日 日本・岡山県吉備郡久代村 (現:総社市) |
死没 | 不明 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 早稲田大学政治経済学科 |
職業 | 実業家 |
肩書き | 日本加工織布取締役 |
配偶者 | 房子(市川久平の長女) |
子供 |
俊子(長女) 正彦(長男) 武彦(次男) 寛子(三女) |
親 |
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木口 重彦(きぐち しげひこ、出生名:九一、読み:きゅういち、1883年(明治16年)8月22日[1] - 不明 )は、日本の実業家である。軍需工場でもあった日本加工織布の取締役[2]。岡山県総社市出身[3]。
経歴
[編集]生い立ち
[編集]1883年(明治16年)8月、岡山県吉備郡久代村(現:総社市)で父・木口豊三郎、母・仲の長男として出生[3]。1901年に旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)卒業を経て、早稲田大学政治経済学科へ入学し、1904年(明治37年)、20歳で卒業した[1]。1928年(昭和3年)父の死去と共に、45歳で木口家の家督を相続し、名前を九一から重彦へ改名している[4]。
大学卒業後
[編集]大学卒業後、実業界に実を投じ、貿易会社であった第一洋行の取締役となり[5]、その後、1918年(大正7年)35歳のときに太陽製帽の支配人を務めている[6]。1919年(大正8年)12月に防水布やベルトを製造する日本加工織布の設立に出資し、同社の常務取締役となるが、第一洋行の監査役として席を置いていた。1937年(昭和12年)には、ライト自動車製造(後のライト自動車工業、戦後破産)の取締役にもなっている[4]。第二次世界大戦が激化するにともない、次第に国策として軍事物資(防毒衣等)を日本加工織布の小田原工場で生産するようになる。このため、後には勤労動員工場としても指定された[7]。
1938年(昭和13年)には、社名を日加工業へ変更した。なお、同企業には、後に映画『機動戦士ガンダム』の監督として有名になった富野由悠季の父が、同社の小田原工場で働いていた[8]。
また、木口はプライベートで、旅行と歌謡曲を好んだ。早稲田卒業後も、早稲田大学の校友会倶楽部(現:永楽倶楽部)へ所属していた[9]。
家族
[編集]- 父親 - 豊三郎
- 母親 - 仲(1857年(安政4年)2月生)河合房次郎の長女[3]。
- 妻 - 房子(1891年(明治24年)5月生)順正高等女学校卒(現:岡山県立高梁高等学校)市川久平の長女[4]。
- 子供 - 俊子(長女:1912年(明治45年)6月生)三輪田高等女学校→日本女子大学卒。徳島県出身の三浦實の妻[4]。
- 子供 - 正彦(長男:1914年(大正3年)7月生)早稲田大学卒。
- 子供 - 武彦(次男:1917年(大正6年)12月生)早稲田大学卒。
- 子供 - 寛子(三女:1922年(大正11年)1月生)三輪田高等女学校卒(現:三輪田学園中学校・高等学校)。
脚注
[編集][脚注の使い方]
- ^ a b 岡山県吉備郡案内誌 p.44, 吉備郡案内誌編纂会, 大正15年
- ^ hashimoto@koken-seminar.jp (2020年9月1日). “ガンダム監督の「敗北者宣言」【富野由悠季】”. 公 研. 2025年1月2日閲覧。
- ^ a b c 最新業界人事盛衰録「キの部」p.12, 通俗経済社 編, 昭和6年
- ^ a b c d 人事興信録 第11版 上, 人事興信所 編, 昭和12年
- ^ 事業及人物 : 記念号 p.384, 東京電報通信社, 昭和13年
- ^ 化学工業博覧会 p.297, 井関十二郎 編, 早稲田同文館, 大正7年
- ^ 広報おだわら p.3, 平成2年5月15日版
- ^ hashimoto@koken-seminar.jp (2020年9月1日). “ガンダム監督の「敗北者宣言」【富野由悠季】”. 公 研. 2025年1月2日閲覧。
- ^ 大衆人事録 第5(昭和7年)版 ア-ソ之部, 帝国秘密探偵社 編, 昭和7年