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木本事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
事件を伝える東亜日報の記事 (1926年1月7日)

木本事件(きのもとじけん)、または三重県朝鮮人虐殺事件は、三重県南牟婁郡木本町(現・熊野市)で1926年大正15年)1月3日に起きた、在日朝鮮人2人に対するリンチ殺人事件を指す[1][2][3]

事件の経過

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事件当時、現場付近では日本人と朝鮮人の労働者計47名がトンネル工事に従事していた。他に13人の朝鮮人家族が近くの宿舎に滞在していた[2]。 1926年1月2日、朝鮮人と酩酊した[4]日本人が地元の劇場の前で口論となった。日本人はを抜き、朝鮮人に重傷を負わせた[5]

1月3日、地元の神社で朝鮮人の一団が目撃された。町の日本人の間では、朝鮮人がダイナマイト(トンネル工事で使われるもの)を持って仕返しに来たという噂が広まった[5]

地元警察の要請を受け[4]在郷軍人会青年団消防組竹槍猟銃で武装し、朝鮮人労働者が滞在している地域に向かった[5][2]。朝鮮人の一部は、安全を求めて建設中のトンネルの中に逃げ込んだ[2]。日本人の労働者は朝鮮人と間違われ、同じ様に襲われた[2]。イ・ギユン(이기윤; 李基允、25歳)は、午後5時頃に、他の労働者や家族がいるトンネルとは反対方向に逃げることで、彼らに逃げるチャンスをつくったと報告されている[2]。イは非武装であった[2]。しかし彼は取り囲まれた上、通りの真ん中で頭を撃たれた[4][2]。朝鮮人の一部はトンネルを抜け出し、約60人[4]が山に逃げ込んだ[2]

日没後、攻め手は再編成され、山に潜む朝鮮人を探しに出動した[2][4]。朝鮮人はダイナマイトを使用して反撃した[2]。このとき、同じ工事現場で働いていた日本人労働者(林林一、高橋万次郎、杉浦新吉ら)も、朝鮮人労働者とともに闘った[6]。 ダイナマイトによる反撃を受けた日本人住民は、午後7時頃、イを虐殺した地点のすぐ近くでペ・サンド(배상도、裵相度、29歳)を殺したが、彼もやはり非武装だった[2][6]。攻め手は一旦退却した後、追跡を再開し朝鮮人を銃撃した[2]

殺害されたうちの一人は頭を槍で突かれ、町の中心部を引きずり回された[5]。彼らの遺体は3日間路上に放置され、何度も突き刺されたために「蜂の巣のように」なった[4]。彼らの死体は地元の極楽寺の墓地に集められ、で覆っただけで数日間放置された[5]。その後、彼らは埋葬され、彼らのためにつくられた四文字の戒名(春雪信士と秋相信士)が墓石に刻まれた[5]。他の朝鮮人の負傷についての記録は、重傷を負ったという1人を除いてほぼないが、他に戦闘中に負傷した者もいただろうと研究者は推測している[2]

犯人逮捕と裁判

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事件の直後、加害者集団は地元警察に対し、手に負えない朝鮮人たちが食料品や物品を盗んだと説明した。警察の捜査に協力した5人は表彰され、処罰はなかった[2]

1月6日までに、加害者と警察は共同で約50人の朝鮮人を逮捕し、尋問した[2]。1月7日には20人が扇動罪で起訴され、予備審問にかけられた[2]。残りの30人は更なる処置のため鳥羽に送られた[2]。1月10日から2日間かけて日本人加害者が逮捕された。20人が取り調べを受け、5人が拘留された。計15人の朝鮮人と17人の日本人が裁判にかけられた[2]。在日朝鮮人に対して同情的なことで知られていた日本の弁護士、布施辰治が朝鮮人の弁護を行った[7]

裁判所は10月30日に判決を下した。朝鮮人のキム・ミョング(김명구; 金明九)は懲役3年、ユン・チョンチン(윤정진)は懲役2年、イ・トスル(이도술; 李道述)とユ・サンパム(유상범; 유상범)はそれぞれ懲役1年6ヶ月。残りの朝鮮人は釈放された。日本人の道原總士(桃原增市)ら3人は懲役2年、他の10人は懲役6月、執行猶予3年とされた[2]

起訴や有罪判決の有無にかかわらず、すべての朝鮮人は解雇され、現場から追放された[2][5]。一方、現場である木本の有志は、裁判中の日本人の生活費と弁護士費用を負担した[2]

遺したもの

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この事件は日本と朝鮮半島双方の朝鮮人を激怒させた。朝鮮の新聞は在日朝鮮人に対する労働権と公民権の適用を求めた[2]

その後、事件はほとんど忘れ去られていたが、1980年代後半から地元の市民団体「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会」[3]が、亡くなった朝鮮人のための慰霊碑の建設を提唱を始めた[1]。地元の極楽寺の住職であった足立知典は木本町育ちだったが、事件とは関係ない調査に絡み偶然に見聞きするまで、事件について聞いたことがなかった。彼は私財を投じて韓国・慶州から墓石2基を取り寄せ、そこに故人の朝鮮名(朝鮮漢字)を刻んだ[5]。新たな墓石は2000年11月に建てられた[3]

この事件は、日本における他の朝鮮人に対する暴力行為、木本事件の2年半ほど前に起きた1923年の関東大震災朝鮮人虐殺事件福田村事件と対比されている[4][5]

脚注

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  1. ^ a b 김 (2020年8月16日). “69년전 일 현지주민에 학살/한국인노동자 추모비 건립” (朝鮮語). The Chosun Ilbo. 2024年2月16日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 정. “미에현 조선인 학살사건 (Mie(三重)縣 朝鮮人 虐殺事件)” (朝鮮語). Encyclopedia of Korean Culture. 2024年2月16日閲覧。
  3. ^ a b c デマ拡散の先に起こること 94年前の教訓「木本事件」:朝日新聞デジタル”. 朝日新聞 (2020年6月22日). 2024年2月16日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g 永昇 (2022年2月9日). “<不逞鮮人>とは誰か~関東大震災下の朝鮮人虐殺を読む(15)三重・木本でもデマで2人惨殺…東京大空襲まで反復する流言蜚語と暴力”. アジアプレス・ネットワーク. 2024年2月16日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h i 朝鮮人労働者2人殺害「木本事件」を知っていますか? 「隠されている限り、お互い傷は癒えることはない」”. メ~テレニュース (2023年9月4日). 2024年2月16日閲覧。
  6. ^ a b 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会”. www5a.biglobe.ne.jp. 2024年8月19日閲覧。
  7. ^ 이 (2010年8月21日). “[현대사 인물발굴 후세 다쓰지(布施辰治)]” (朝鮮語). Monthly Chosun. 2024年1月17日閲覧。

関連項目

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